1-1 ブイチューバーに中の人などいない

「イェイイェーイ! もっと速く走れ、弱虫サドルゥ!」


「おい、静かにしろ。いま何時だと思ってんだ」


 丑三つ時のコンクリートジャングルを駆ける、一台の自転車。


 もう九月も半ばだというのに、シャツを抜けていく風はじわっとむわっと気持ち悪い。


 自宅マンションの神保町から、秋葉原は目と鼻の先だ。


 靖国通りを直進し、高架下の信号を左折。

 和泉橋を渡って寝静まった昭和通り口を奔る。


 車一台通らない、寝静まった街。

 不気味に光る赤信号だけが、人の消えた世界で秩序を守り続けている。


 そんな物哀しげな静寂を台無しにするのは、後ろの荷台から響くハスキーボイス。


「いやぁー、アキバにタダでいける自転車は最高だなっ!」


「まあ歩ける距離だし」


「でも徒歩だったらこの風は感じられないでしょ? 三次元はテンション上がるなぁ~」


「つーか、こっちで合ってるんだよな?」

「あたぼーよ! ボクを誰だと思ってんのさ!」


 振り向きはしない。

 後ろの蒼髪少女が、ドヤ顔をしてることは簡単に想像がつく。


 だが圧倒的な存在感とは裏腹に、荷台に人を乗せたような重みはない。

 これまでも


 それでも質感を伴った実体なんて、信じられるわけない。


「ねね、そういえばサドル君の名前は~?」

「別にいいだろ、なんだって」


「なにそれっ! ボクはちゃんとにこたまブルームって名乗っただろ!」

「そう言われても信じられるかっての」


「へえー、信じないんだ? ボクと話せて、深夜に自転車まで出してくれるのに、ボクがブルームであることは信じないんだ?」


「だってお前が必死に助けて、なんて言うから……」


「そうだよ! ってなにをチンタラ漕いでるのさ、サドル君! ママにピンチが迫ってるんだよ!?」


 俺は深くため息をついて、観念する。


「……次元つぎもと和平かずひらだよ」

「え、なに?」


「名前だよ、俺の名前!」


「オッケー、カズな! そんじゃ早いとこママを救っちゃいますか、大剣を月夜に煌めかせてっ!」


「……お前、少し黙ってろ」



---



 ほどなくして目的地に着く。


 エントランスがガラス張りの高層マンションだ。

 ……神田川のニオイが漂う、ウチのボロマンションとは大違い。


 少女の指示した番号を入力すると、オートロックはあっさりと開く。


「何階だ?」

「八階の八〇四号室、急いで!」


 エレベーターに乗り、目的の部屋へと向かう。


 ブルームの顔から笑みは消えている。

 どうやら緊急を要するのは本当らしい。


 扉はそんな俺たちの気も知らずにゆっくりと閉まり、のろりのろりと時間をかけて昇っていく。


「……ひとつ、聞いておきたいんだけど」


「うん?」


「お前の言うって……お前をデザインした絵師か?」


「違うよ。ボクのママは、ボクに声をくれた人!」


「というと、声優か」


 ブルームが真面目くさった顔で頷く。


 すると俺たちがいま向かっているのは声優の自宅らしい。



 ……声優?

 じゃ目の前にいるこいつは、なんなんだ?


 身長は百五十センチくらい。

 アイドル風の衣装を身に纏い、金色の輪っかを頭に浮かべ、背中に翼を生やしている。


 その姿は疑いようもないほどバーチャルマイチューバー、にこたまブルームそっくりだ。


 マイチューバー。

 動画サイトMyTubeの広告収入で生計を立てる、もしくはそれを目指す人々のことだ。


 その中でも配信者の顔は見せず、仮想現実のアバターを本人と称して活動する者をバーチャルマイチューバー、略してブイチューバーという。


 そのブイチューバーのブルームはつい一時間ほど前、家の中に突然現れた。


 ママを助けて、とそれだけを叫んで。


 だが、普通に考えればこいつが声優本人のはずだ。


 現実の三次元世界に、二次元の存在が実体を持つはずはないのだから。


 ……ともあれ、とりあえずはピンチらしき人物を助けるのが急務だ。


 エレベーターが到着するなり、八〇四号室に走り出す。


 額の汗を手の甲で払い、インターホンを押す。


 返事を待つ間も全身からは汗が吹き出し、心臓の音はうるさくてやまない。


 思えば、ブルームが現れてから走りっぱなしだった。


 だがいくら待てども、インターホンからは返事がない。


 俺は辛抱堪らずインターホンに怒鳴りつけた。



「いるんだろ!? お前、ブルームの声優だよなぁっ!?」



 返事はない。

 いまは深夜だ、寝ている可能性もある。


 だがブルームの言葉を信じるなら、叩き起こす必要もありそうだ。


 俺はダメ元でドアノブを回す。

 ……すると、あまりにもあっさりと開いてしまった。


 いくらなんでも不用心、なんて考えたが……そうだろうか?


 カギは誰かに開けられた後――押し入られた後、なんじゃないか?


 そして何者かに拘束され、自分で閉めることが出来ない。


 そんな嫌な想像が脳裏を掠める。


 開いたドアから室内を覗くと、中は不自然なくらいに真っ暗だ。


 ――と、開けたドアの隙間からブルームが先に滑り込み、中を駆けていく。


「き、きゃあぁっ!」

 そして奥から聞こえる、女の叫び声。


 マズイ!

 俺もブルームを追って部屋に駆け込み、照明のスイッチを叩く。


 そこで目にしたのは……少女に抱き着くブルームと。


 腕の中で震える――銀髪の、少女だった。

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