過去から続く緑の国
夏木
武蔵野の大地
『行くすゑは 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出づる月かげ』
小太りな教師がつらつらと黒板に書き込む。
「この歌、知ってるやついるか?」
しょっちゅうそう問いかけるが、毎回誰も手を挙げようとはしない。
知らないから、という理由ではなく、積極性がないからだと思う。他に手を挙げる人がいないなら、自分も挙げない。そんな人たちが集まったのが今のクラスだ。
クラスメイトが変わってから半年。大体の人柄とか、雰囲気はもうわかりきっている。
あらかじめ授業の予習をしている俺も、周りに合わせて、知っているけど手は挙げない。
「なんだ、誰も知らないのか。これは新古今和歌集に編まれている歌だ。
そんなこと知っている、なんて横から言うことはしない。
黙って話を聞き流す。
「現代語訳は、『行先は空と一つになっている武蔵野で、草の原から出た月の光』。昔から、ここ……武蔵野は自然が多かったんだ。だから武蔵野に関する歌には、共通して広大な自然が述べられているんだ」
訳は調べていたが、武蔵野については詳しく知らなかった。大体、埼玉の南から東京にかけてかな、ぐらいのざっくりとした知識しかない。
広がる大地の先が、空と交わる武蔵野。そこに育つ緑の隙間から、月の光がこぼれる。
そう訳されるこの歌からは、武蔵野には多くの自然があり、広大な大地が広がっていることが想像できる。
現代とは異なり、写真がなかった時代に、目の前の光景を伝えるすべはほとんどなかっただろう。
だが、歌ならば。
それなら自然を後世に伝えることができる。そうして武蔵野の広大な自然を多くの歌が伝えているらしい。
なんなら、新元号の『令和』の出典となった万葉集にも、『武蔵野』という言葉が出てくる。それほど昔から武蔵野が存在し、自然が、生活が語られているそうだ。
「そもそも武蔵野というのはな――……」
ダラダラと続く教師の話に聞き飽きて、ふと窓の外を眺める。
そこから見える風景。
学校の近くは、住宅街となっている。だが、遠くを見れば、この歌と同じように自然が広がっている。
緑の木々が風に揺られてざわめく。
地上に咲く色とりどりの花も、同じように風によって揺れている。
青い空には白い雲が流れて、時々太陽を隠してしまう。それでもなお、顔を出しては優しくあたりを照らしている。
小さな鳥が空を飛び、そんな鳥を気にもしない人がどこかへ向かって歩いていく。
この武蔵野で生まれ、育った俺にはなんてことない、あたりまえの大地。
だけどそこには、長い歴史があり、自然がある。
今は、この歌の時代より人口が増えただろうし、開発も進んでいて、全然違った光景だっただろう。
服装も違えば、移動手段だって違う。
もっと自然がいっぱいあって、建物は少なかったかもしれない。
それがいつしか、人の手で壊され、変えられていった。
変わったとしても、当時から続く自然の中で暮らしていると考えると、どこか考え深い。
武蔵野だけじゃない。どの場所でも、より住みやすく、快適な生活を送るために進められる都市開発で壊されていく自然。
大都市には少なくなった自然が、ここには残っている。
自然の減少によって地球温暖化が問題になっている世の中。残っている自然を大切にしなければならない。
それが、今を生きる俺たちがやらなくてはならないことだと思う。
「そこ! ぼやっと外を見てるんじゃない。今は授業中だぞ」
教師に指摘され、クラスメイト達がクスリと笑った。
どうやら今の俺には、壮大な目標よりも目の前のことに集中しなければならないらしい。
まあ、ひとまずは授業を聞こう。
授業が終わったら、もっとこの地を調べよう。
ただのしがない一市民に何ができるのか。
藤原良経みたいに和歌ができる訳じゃないし、お金や権力があるわけでもない。
未来に武蔵野を残すため、伝えるためにできることを探そうか。
Fin
過去から続く緑の国 夏木 @0_AR
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