「光の壁」の向こう側
松本青葉
第1話
史上初の超光速航法開始まで残り五分になった。先ほどまでの高揚した雰囲気は一変し宇宙船内は緊張の空気に包まれていた。それも無理はない。あと五分後には百光年の距離にあるウルクアルファ星系に移動する。もし成功すれば人類はこの広大な宇宙に進出することが可能になる。そして俺の名前も歴史の一ページに刻まれることだろう。
「どうだルイス? 緊張してるか?」
と隣に座る船長のニールが話しかけてきた。
「ええ、この状況に置かれたら誰だって緊張するでしょう」
「その割には心拍数は全然変わってないじゃないか」
船長はモニタに表示された俺のバイタルデータを指して笑った。その隣に表示されている船長の心拍数はかなり多い。史上初の超高速航行艦の船長になったプレッシャーは相当なものなのだろう。ここらで一つからかってみるか。
「船長めっちゃ心拍数上がってますよ。緊張してるんですか? ちびらないで下さいよ」
「さっき誰でも緊張するって言ってただろ! まあ、その点は心配しなくていい。俺も今履いてるお気に入りのパンツを汚したくない」
と船長は笑顔で返してきた。
「船長もルイスも真面目にやって下さい。もうすぐワープですよ」
と水を差してきたのは同じく船員のビクトリアだ。若くしてワープを実現する理論を打ち立てた天才物理学者だ。
「そう気にするなよ。緊張を和らげていただけじゃないかビクトリアちゃん。カルシウム足りてる?」
船長も相変わらずだが、ビクトリアの蛇のような睨みに耐えきれずおとなしくなった。そして、ついにその時がやって来た。秒読みの機会音声が狭い室内に響く。秒読みがゼロになったが、何も起こらなかった。衝撃も光もない。ただ、モニターにはワープの成功を示すデータが表示されていた。
「ルイス。これワープしちゃったの?」
と船長がボソッと聞いてきた。
「ええ、コンピュータがぶっ壊れてないなら成功したということでしょうね」
と俺は答えた。
「そうですね、周辺の星の観測結果からも今いるのはウルクアルファ星系でしょう。良かったですねー船長。来年には教科書に載りますよー。人類初の偉業だって」
とビクトリアも淡々と続ける。祝福しているはずなのに全く心がこもっていないような気がするのは気のせいだろうか。でも船長もまんざらでもない感じでニヤニヤしているし、まあ大丈夫だろう。
「ルイス。宇宙船周辺の重力場は安定してるか?」
いつもより声を上ずらせて船長が聞いてきた。
「ええ、重力場は安定していて、ちゃんとウルクアルファ星の周回軌道に載ってますよ。近くに衝突しそうな小惑星も無いですね。詳しい軌道は計算中なんで何とも言えないですが」
ワープ直後の重力場の乱れを懸念する学者も一定数いたのだが杞憂だったようだ。
「まあ理論上では重力場の乱れは誤差範囲に収まる予定でしたしね」
とビクトリアが続けた。ドヤ顔だ。まあ、自分の理論が立証されたわけだから多少自慢げになるのは目をつむろう。そして落ち着きを取り戻した船長が席から立ち上がった。
「よし、ワープは成功だ。この偉業を君たち二人と達成できたことを誇りに思う。人類はようやく太陽系というゆりかごから脱したのだ」
「船長、何急にそれっぽいこと言ってるんですか? 病気ですか?」
「正直ちょっと気持ち悪いです。 あ、気持ち悪いのはいつも通りですね」
俺とビクトリアの冷たい反応を受けて船長は目に見えて落ち込んだ。自己責任だな。
「せっかく一年位前から何言うか考えてたのに、ひどくない?」
沈黙。
「はいはい、じゃあ船のシステムと機器を全部点検して今日は終わろうか」
「「了解です」」
そう言って三人は再びモニターに向き直った。
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