月は、ときどきひとりで 1/7



 イジメられています、とダイレクトメッセージは始まっていた。

 夏で、セミが鳴いていた。和室の畳に敷かれたカーペットの上、小学生のころに買ってもらった勉強机にどでん、と置かれたデスクトップパソコンとにらめっこしながら、憇町いこまち果奈はてなは椅子の上で体育座りしている。意味もなくマウスで「イジメ」の部分をドラッグで青くして、開け放った障子戸の向こうでは夏の海が大窓に眩く日を照り返している。

 ちりりん、と風鈴が鳴る。

 嫌な記憶がよみがえった。

「ねー。おばあちゃんがスイカ貰ってきたっていうんだけど、あんた食べる?」

「わ」

 集中していたから階段を上ってくる音に気が付かなかった。換気のために開けたままにしていた戸の向こうで、いつの間にかモップを手にした母が廊下を拭きながら、タンクトップにエプロンなんてちょっとばっかりニッチな恰好で立っている。

「あ。でもあんた、スイカ苦手なんだっけ」

 どちらかと言えばそうだった。

 昔から果奈は夏によく腹を壊す。氷を食べれば胸が冷たくなり、そうめんを食べれば下腹がぐるぐる鳴り出し、シーズン1杯目の麦茶を飲み干したら1分後にはトイレに駆け込んでいる。

「ちょっとだけ食べるー」

 しかし果奈はぎぃこ、と古びた椅子を回して、

「そう?」

「うん。配信のネタになりそうだし。別に味は好きだし」

 あらまアイドル根性だわ、と頬に手を当てる母の浅黒い首から胸元へ、汗が一筋流れた。果奈は自分の真っ白な腕と見比べて、もう少しまともに外に出るようになったら自分もすぐにああなるのだろうなと思う。

「じゃあ切って持ってくるけど、その前に廊下、掃除機かけちゃってもいい? いま大丈夫?」

「いいよ。ていうか、わたし2階は暇なときやっとくって言ってるのに」

「だってあんた、放っておいたら1週間も2週間もかけないじゃない」

「どうせ汚れるんだから気が向いたときにやればいいじゃん」

 不潔、と思春期の心に刺さるような台詞をさらりと言ってのけて、すぐにガーガー掃除機の音が鳴り始める。最初から自分が何と言おうと掃除機をかけていくつもりだったに違いない。

 何かを母が言った。

「え? 何?」

 もう一度母が何かを言ったが、掃除機の音にかき消されて聞こえない。席を離れたい気分だった果奈は、これ幸いとばかりに椅子を下りて母の声が聞こえるよう近くまで移動する。

「順調? その、バーチャル活動っていうやつ」

「あ、うん」

 果奈は頷く。あんまり席から離れた意味はなかったかもしれないと思ったが、ちょうど報告したいこともあったのでいいだろう、とそのまま続ける。

「この間の配信でね、1時間やって20万もらった」

「は?」

「時給20万」

 いえーい、と果奈がピースサインを作ると、母は掃除機で廊下の端の埃を吸い込みながら、聞き間違いを疑って水抜きでもするように片耳をぽんぽん叩く。

「プラットフォームの手数料とかあるからほんとは10万くらいに縮むけどね」

「……お母さんにはついていけない世界だわ」

 バーチャルアイドルというものがある。

 ざっくり言ってしまうと、アニメ調のイラストやCGを顔にした、非実在のアイドルのことだ。古くは本当にアニメやら恋愛シミュレーションゲームやらのキャラクターをアイドル化したものだったらしいが、現時点で17歳の果奈はそのあたりの歴史をまったくもって体験していないし、最初のころにマネージャーから教えてもらったような気もしたけれど全部忘れてしまった以上は教えてもらっていないのと大して変わりはない。

 いまの時代にバーチャルアイドルといえば、アニメっぽいアバターを使ってインターネット配信をしているキャラクターのことを指す。

 着ぐるみに似ている、と果奈は思っている。

 バーチャルアイドルといっても人格までAIだのなんだの22世紀から来たみたいな技術で動かせるわけではない。アニメもゲームも人が作っているように、バーチャルアイドルにも裏側に人がいて、それを操っている。

 果奈はその、着ぐるみの中の人をやっている。「パッチワーク・アソート」というグループの「はてな」という着ぐるみで。

 はっきり言って、評判はかなりいい。

 別に「パッチワーク・アソート」はどこぞの大企業肝入りで打ち出された広報グループというわけでもないし、何ならベンチャー企業の意思すら入っているか怪しい。マネージャーを名乗る怪人物から渡されたアバターを元に活動はしているが、キャラ設定や配信方法の相談に乗ってもらったくらいで、活動の方向についてとやかく言われたことは一度もないし、それどころか利益の分配についても「そっちが目的じゃないから」などと言って一度も求められたことがない。

 そんな資本主義に中指おっ立てた状態で、ついこの間「はてな」のファン数が5万人を超え、そのおめでとう記念配信で20万円の投げ銭が得られた。投げ銭というのはストリートミュージシャンが路上に置いた空き缶に投げ入れられるお金のインターネット版を想像してもらえればよく、記念配信では歌を歌っていたわけでもないから、つまり駅前でだらだら喋っていたらいきなりポケットに20万円をねじこまれたとか、そういう状況に近い。

 母の理解が及ばないのも当然だと果奈は思う。

 何なら自分だって理解が追い付いていない。この間作った「はてな」名義の通帳残高を見るたびに、これは別の国の通貨レートで表示されていて本当は10円くらいにしかなっていないんじゃないかと疑わしくなる。ある日突然部屋に大量のカメラと人が押し入ってきて「お前の人生ぜ~んぶクソ長いドッキリでした!」とプラカードを見せつけてくるんじゃないかと不安になることもある。

 でも、何度見ても間違いない。

 果奈はそのバーチャルアイドルとやらで、十分な生活費を稼いでいた。

 地下アイドルをやめたときから、もっと無茶苦茶な人生になると思っていたのに。

「今日もお仕事してるの?」

 ついでとばかりに廊下から畳の部屋まで掃除機を侵入させてきた母が何気ない調子でパソコンの画面を覗きこもうとしたのを、わっ、と声を上げて果奈は押しとどめる。

「だめだめ。個人情報、個人情報」

 あんなにでかでか「イジメ」なんて言葉が書かれたメッセージを、母とはいえ見せるわけにはいかない。それなりの金をもらえればそれなりの職業意識というのも芽生えるもので、果奈の行動は非常に模範的かつ倫理的なものであったが、

「――あんた、またちんちんの写真とか送られてるんじゃないだろうね」

「ち――」

 何を勘違いしたのか、母は熟練の名刑事のような目つきでそう言った。

「送られとらんわ! あーあー、果奈ちゃんいま反抗期になっちゃった! 出てって! はい、あと自分で掃除しとくから!」

 ムキになるところが怪しい、とかなんとか言ってくる母の肩をぐいぐい押して部屋から追い出す。最近リビングに下りていくたびに刑事もののドラマを見ているから、いつかこういうことがあると思っていたのだ。母は何にでもすぐに影響を受ける。そもそもいま着ているエプロンだってこの前の朝ドラで主人公が付けていたやつだ。

「―—でもね、果奈」

 去り際、急に母はいかにも親らしい口調になって、

「何かあったら、ちゃんとお母さんに言うんだよ。何とかしてあげるから」

「―—はいはい。わかったってば」

 大丈夫、と言って母が階段を下りていくのを見送る。それから廊下側の戸を閉じて、パソコンの前に座って、もう一度ダイレクトメッセージを見る。


――イジメられています。僕は中学2年生で……


 どこにでもあるんだなあ、と果奈は呟いた。


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