限りある時の中で

夜萌 鳴月

限りある時の中で



「未来は、与えられるものじゃない。

 未来は、自分で手にするものだよ」



 君は微笑み、そっと囁いた。



 午前6:00。空はまだ薄暗く、夜の気配が漂う。それでも、街は次第に目を覚まし、日々は流れていく。僕もその一部にすぎない。

 僕は、耳元で騒がしい目覚まし時計を止め、伸びをする。ふと、珈琲の香りが鼻腔をくすぐり、父が既に起きていることを知らせる。


 やってしまった…


 僕は、寝ぼけ眼を擦り、派手に跳ねた寝癖を手でとかしながら、転げるように軋む階段を駆け下りた。リビングの扉に手をかけたところで、背後から聴き慣れた父からの罵声が飛んでくる。



「誰のおかげで飯が食えてる!」



 父の口癖。振り返ると、顔を真っ赤にした父が立っていた。


 僕が謝罪の言葉を述べようと、重い唇を開いた時にはもう遅く、左頬に衝撃が走る。口内に鉄の味が広がり、薄らと視界が歪む。

 立ち上がろうとする僕の胸ぐらを父は掴み、持ち上げて、さらに罵声を浴びせてきた。



「誰のおかげで学校に通えている? 誰のおかげでこの家に居れる? 一円たりとも稼ぐことの出来ないお前が、何故家事の一つくらいまともに出来ない? この出来損ないが!」



 僕は、何も言い返すことが出来ず、黙る事しか出来なかった。


 そんな中、ふと昔の父の姿を思い出していた。



 僕の父は、よく笑う優しい人だった。僕が、何か失敗しても決して怒らず、僕の背中に手を当ていつもこう言うのだ。



「傷つける人じゃなく、傷つけられる人になりなさい」



 今の父からは想像もできない言葉。昔の父は、皆に優しい頼れる人だった。そんな父が変わってしまったのは、今から二年前、母が癌で亡くなった時だった。


 母は、一度も大きな病気にかかった事がなく、何年かに一度しか、風邪をひかないくらい身体の強い人だった。病気とは無縁な母が、癌にかかったことは今でも信じられない。

 母が癌で亡くなってからというもの、父は豹変してしまった。

 あの笑顔が絶えなかった父は、その日以降、一度も笑うことは無かった。いつもどこか遠いところを見つめるような、光のない瞳、僕はそんな父を見るのが辛かった。

 そんな父の負担を少しでも減らす為に、僕は家事全般を受け持つようになった。


 これは僕なりの善意だった。


 しかし、父は、僕が家事を少しでも怠ると怒鳴りつけ、暴力を振るうようになった。当時、16歳の少年だった僕の心は、意図も容易く砕かれ、この善意による行動はいつしか、義務となっていたことに気づくのであった。



(そうか、僕は"家事をやっている高校生の息子"ではなく、"他人の高校生が家政婦"なんだ)













 僕の未来、存在意義は。














「あ! また喧嘩してきたの!? 」



 教室に入ると、クラスメイトのカナエが心配そうに声をかけてきた。

 彼女は、このクラスの学級委員長、成績優秀、才色兼備、きっと悩み事とは皆無なんだろうな、と思わせるくらい常に笑顔の絶えない人物である。そんな彼女は人望も厚く、今僕に話しかけているように、クラスのムードメーカーでもある。



「いつもの西高の生徒が、僕のことをチビって馬鹿にしてきたから懲らしめてやっただけだよ」



 僕は、何十回と繰り返してきた嘘をつく。こんなバレバレの嘘でも、彼女は困った顔をしながら信じてくれる。これは、彼女がそれだけ良い人だということなのだろうか。

 そんな彼女に、本当の事を話さず、嘘をついている事に、少し良心が痛む。それでも、僕は本当のことを彼女に話すつもりは無い。話せば、きっと良い人すぎる彼女を困らせてしまう。

 僕の母が二年前に他界していることも、父が僕に暴力を振るうことも、これは誰にも話さず、僕の胸の内に秘めておく方が


 僕の為にも、彼女の為にも。




 ある日の放課後、僕は忘れ物を取りに自分の教室へと向かっていた。生徒の大半が下校したのにも関わらず、校内は部活動をしている生徒の声や音で賑やかだった。授業中の重めの空気とは打って変わって、開放的で、楽しそうな空気が漂う。

 僕はそんな空気を他所に、教室へと続く廊下を駆ける。僕の教室は4階にある為、教室に辿り着いた時には息が切れていた。

 教室が部活動で使われていなければいいな等と考えながら、教室の扉に手をかける。


 この時、僕はどうして中にいる人の気配に、泣いている彼女の存在に気づかなかったのだろうか。



 扉を開けると、叶がそこに居た。




「きゃっ!? さ、佐野くん、どうしたの?」



 彼女は、咄嗟に目元を拭い、いつものように笑顔を作ろうとする。

 しかし、彼女の笑顔はいつも通りでは無かった。勝手に、悩みとは無縁な人物だと思っていた彼女が涙している現場に立ち会ってしまった僕は、動揺を隠しきれず、声が上擦ってしまう。



「わ、忘れ物を取りに来たんだ。

 あ、あったあった、それじゃ僕はこれで」



 自分の机から忘れ物を急いで取り出すと、そそくさとその場を後にしようとする僕に、彼女は小さな声で話しかけてくる。



「み、見たよね。その、泣いてる、ところ……」


「う、うん。委員長でも、泣くことあるんだね」



 流石にしっかりと見てしまったものを、見ていませんと言えるほど、僕は自分を通せなかった。



「失礼だなぁ、私だって泣くことくらいあるよ!

 私の事ロボットか何かと間違えてない?」



 彼女は、苦笑いしながら言った。そんな彼女の瞳は、一瞬、父と重ねて見えた。その時にはもう遅かった。僕は思いもよらぬことを言ってしまった。



「僕で良かったら、話聞こうか?」



 彼女は驚いた顔をしていたが、きっと僕の方が驚いていたに違いない。「やっぱり今の無しで」と、訂正するよりも先に、彼女は呟いた。



「私、実は癌なんだ。それも、もう長くないの」



 僕は、一瞬時が止まったのかと錯覚した。思考が纏まらない。声が出ない。いつも笑顔の委員長が癌?ここまで良い人がもうすぐ死ぬ?

 脳に酸素が回ってこない。

 理解ができない。おかしい。理不尽だ。

 死ぬと決められているのに、何かを成そうと必死に生きて、足掻いて、でもそれすらも無駄に?

 そんな僕を見かねてか、委員長は、窓から見える街並みをぼーっと眺め、語り出す。



「佐野くんはさ、中島敦の山月記って知ってる?その本にこんなフレーズがあるの。

 人生は何事をも為さぬには余りに長いが

 何事かを為すには余りに短い

 本当にその通りだと思うなぁ。私生まれてから今に至るまで、何も出来なかったと思うの。私さ、弁護士になりたかったの。だから、勉強も沢山したけどもうすぐ死んじゃうし、世界一周もしてみたかったけど、それも叶わない。

 ほとんどの時間を無意味に過ごしちゃったなぁって後悔してるの」



 僕は、思っていたよりも大きな声で感情を露わに叫んでしまった。



「でも、どうして! 委員長はそんなに元気なの? もうすぐ死んじゃうくらい重いなら、どうして今入院していないの? 委員長みたいな良い人が癌なんて、そんなの理不尽じゃんか!」



 彼女は、驚いて一瞬、目をぱちくりさせていたが、下を向いて震える小さな声で呟いた。



「私さ、抗がん剤治療で髪の毛が抜けちゃうのが嫌なの。苦しい思いしてさ、さらさらのこの髪の毛が抜け落ちてさ、髪は女の命なんだよ?だから、そこまでして生きていたいなって思わないの。それに、早期の段階で、至る所に転移しちゃってさ、延命しか出来ないみたいなの。だから、お医者さんに無理を言って、学校に通わせてもらってるの。死ぬ時くらい、自分の好きなようにして死にたいじゃん?

 後ね、癌のおかげで気づいたこともあるの」


「気づいたこと……?」


「うん、私は癌のおかげで、今生きていることのありがたみが、一日一日を大切に生きていくことの大切さが、たった一分一秒でも生きたかった人がいたことを知ることが出来たの」



 彼女は、立ち上がり僕の耳元で囁いた。




「未来は、与えられるものじゃない。

 未来は、自分で手にするものだよ。」




 窓から差し込む夕陽が彼女を包み込み、映画のワンシーンを彷彿とさせる。ふと、彼女が笑っていることに気がついた。でも、彼女の瞳は涙で歪んでいた。

 彼女は今も尚、選択し続けているのだ。



「確かにね、私が癌にかかることは与えられた未来なのかもしれない。

 でもね、私は自分の未来は自分で選ぶの。

 病室で、退屈な日々を過ごして死んでいくのか。それとも、友人達と何気ない日々を過ごして、一日一日を噛み締めて死んでいくのか。

 私は後者を選んだから、今こうして学校に通って、佐野くんと話して、皆と同じように笑って日々を過ごしてる。

 もちろん、何も成せなかったことに関しては後悔してるよ。でもね、自分の人生だもの、この選択が原因で、早く死んじゃうとしても、私は後悔してないよ」



 どうすれば、彼女のように強く生きれるんだろうか。僕が、彼女の立場なら前者を選んでいるかもしれない。一ヶ月後死ぬか、明日死ぬかだったら、誰だって前者を選ぶだろう。彼女の選択も、もちろんわかる。

 でも…


 その先を考える前に、彼女は訴えかけるように言った。



「答えを先延ばしにすることは簡単だよ。でもね、一度逃げたら二度と時間は戻ってこないの。だからね、佐野くんも後悔しないように生きてね」



 僕の身体中に電流が走った。


 委員長は気づいていたんだ。僕が考えることをやめたこと、本当は不良でもなんでもない事、ずっと嘘をついてきたことにも。

 僕の中で、それは確かに、芽生え始めた。













 そうか。僕は逃げていたんだ。













 父と向き合うことに。













 母が亡くなったことに。














 そして、自分自身に。











 委員長は、僕の肩に手を乗せ「じゃあね」といつものように笑い、教室を出ていった。



 三日後、委員長こと 明坂アキサカ カナエは自宅で息を引き取った。

 彼女は、最後まで笑顔だったそうだ。



 人は、選択し続けている。

 その選択が正解かどうかは分からない。

 でも、どうせ選ぶなら後悔しない道を歩んでいきたい。



 僕も、父も、母の死を受け止め、お互いに現実と向き合って行かなければならない。

 一歩を踏み出すことは容易ではない。でも、今なら踏み出せる。

 僕は、リビングに入ってくる父に向かって笑顔で言った。



「父さん、おはよう」










 一分一秒の時を、この限りある時の中で。

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限りある時の中で 夜萌 鳴月 @Yomo_Natuki

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