第5話 朝露

 コンコン、と窓を叩く音がした。ハッとして瞼を開けると、真っ暗闇の中、ウインカーの緑色の矢印が点滅していた。カチカチというその音が、まるで俺の鼓動でも測っているかのように単調なリズムを刻んでいる。

 あれ、と助手席のドアへと目を向けると、窓はきっちりと締め切られていた。

 再び、コンコン、と窓を叩く音がする。運転席のほうだった。


「おい、戸井田! 生きてるか!?」


 その野太い声は、よく聞き慣れたものだった。


「返事しろ! おい、戸井田―!」


 今にも、窓にタックルかまして割ってはいってきそうな勢いだ。そんなことされたら、このボロクーパーはひとたまりもない。 


「生きてる、生きてる! ちょっと待て」


 ドアを開けると、でかい図体が岩のようにうずくまっていた。


「お前、まじで……何してんの」


 あきれ返った堀の声はひどく疲れていて、「こっちのセリフだ」とは言えずに、俺は「悪い」と素直に謝った。

 暗がりで停まった車に男二人きりというのも、なかなか心地よいものではなかったが、必死に俺を捜し回っていたらしい堀を無下に追い返すこともできなかった。


「よく分かったな、ここ」


 ポロクーパーの助手席に座った堀は、丸く縮こまって窮屈そうだ。


「この辺の墓地、一通り回ったけど埒があかないと思って……ダメ元でここに来たんだ。この山道だったことは聞いてたし」

「なんで、墓地?」

「フツー、墓地だろ。会いに行く、て言ったら。分からんけど」

「あー……でも、俺、リサの墓の場所、知らないしなぁ」


 不自然な間があってから、堀が「そうか」と沈んだ声で相槌を打った。

 白井というリサの大学の友人から連絡があったのは、全て終わったあとだった。リサと出会った合コンにも来ていて、そこで連絡先を交換していた人だった。リサの通夜にも葬儀にも姿を見せない俺を心配して、連絡してくれたのだ。俺が何も知らないことを知ると、電話口の向こうで声を詰まらせて泣き出した。嗚咽まじりに語られるリサの最期を、俺は黙って聞いた。ちょうど、ラーメン屋にいて、そのときも隣には堀がいた。


「それで……会えた?」


 そう訊ねる堀は、いつもの穏やかな調子に戻っていた。


「一応……会えた」


 大きく揺れる巨体の陰が視界の端で見えた。俺は苦笑しながら、「夢で」と付け加える。


「夢かよ」

「未練たらしくてウザい、て言われた」

「ウザい、か」くくっと堀が笑う声が静かに響く。「リサさんらしいな」

「その点、リアルな夢だったよ」


 結局、辺りが白けて、朝霧に包まれるまで、堀は隣に座っていた。

 のどかな鳥の声まで響き出し、もういいだろう、とハザードを切った。


「会えなかったな」と、俺は自嘲気味に笑って言った。「ちょっと出てくる」


 堀の言葉を待たずにドアを開け、外に出た。

 明け方はまだまだ寒い。ぶるっと身震いしながら、いつ見ても新車のように輝く堀のセダンを横目に、ガードレールに歩み寄った。

 切り立った崖の上で急カーブを描くそこは、展望台のように見晴らしがよかった。朝日を受けて煌めく新緑が、風に揺られて一斉に揺れる。その様は、さざなみ立つ水面を眺めているようだった。

 ガードレールにそっと触れる。真新しく、真っ白なそれは、まだ傷一つなかった。

 あの日、俺のアパートを出たリサは、そのまま『帰らぬ人』となった。俺と別れ、実家に向かう途中、このカーブで運転を誤ったらしい。

 いくら待とうと、もうリサには会えない――ようやく、それを実感する。その事実を噛み締めるように、ひんやりと冷たいガードレールを力強く掴み、祈るように瞼を閉じた。

 こらえられなくなったものが、閉じた瞼の間をすり抜けて頬を伝っていった。喪失感のような、開放感のような。何かが抜け出て、ふっと体が軽くなったような感じがした。

 瞼を開いて、ガードレールから手を離す。手についた白い粉を払い、くるりと踵を返して車に戻った。ちょうど、助手席から出てきた堀に「一限、どうする?」と訊ねながら。

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