第45話 限りない善意の少年が動きだす
「おばさん……」
ボロ家の奥まで聞こえてくる罵声の中、応は、何かに引き寄せられているかのように立ち上がった。
服の引き裂かれた胸元を押さえていた手が、それを阻もうとして空を切る。
「あかん、危ないで応くん」
友愛が呼び止めても、聞きはしない。
応は茶碗を抱えたまま靴をつっかけて、ふらふら出ていこうとしていた。
だが、そこから先へは行くことができなかった。
その背後から、しなやかな腕がからみついてきたからである。
露わになった胸が、応の背中に押し付けられる。
ためらいがちな声が、それを拒んだ。
「友愛さん……早く止めなくちゃ」
応はもがくが、放してもらえない。
友愛はますます強く、後ろから抱きしめた。
「何ができんねん、応くんに。あいつらに全然歯が立たんかったやん」
「だって、この茶碗があったから」
それは言い訳というものであるが、女の子の前で張る見栄ぐらいは残っているといえばいえなくもない。
どちらにしても、その屁理屈はさらなるムチャクチャなひと言で粉砕された。
「割ってしもたらええやん、そんなガラクタ」
半泣きの状態で、友愛は止めた。
それでも応は聞かない。
「これは、井光さんがお客さんから預かったものだろ?」
だが、なおも友愛は食い下がった。
「割れてしもうたもんはしゃあないやろ、責任かぶるのはお父ちゃんや、そんなん慣れてる、いつものことやし」
とうとう泣きじゃくりだした友愛に、応の身体は強張った。
だがそれは、抱えられた茶碗の知ったことではない。
買うてくれ、買うてくれと泣き喚き続けている。
家の外の罵声はというと、ますますひどくなった。
あのおばちゃんが痛めつけられているのだろうか。
応もそれを気にしていたのか、いささか焦っていた。
「ダメだよ、そんなの……誰ひとり、何ひとつ傷つけたくないんだ、僕は」
身体の底から絞り出すような、真実の響きが感じられた。
だが、そんなもので引き下がる友愛ではない。
「何で? 何でそんなムキになんのん?」
その声は、ほとんど哀願に近かった。
応は胸に秘めた思いを、訥々と語る。
「父さんあんなんだし、母さんも出ていってしまった。でも、母さん、父さんのことは心配してるんだ。だから、自分じゃなくて父さんの実家でお爺ちゃんお婆ちゃんの面倒見てる。僕もそっちにいたかったけど、母さんの代わりに、ここにいるんだ」
応の腕の中で、茶碗はますます暴れた。
まるで応の胸に畳まれた思いを感じ取ったように。
友愛の声が震えだした。
「応くんひとりで全部かぶってるやん、悪いこと」
「それでいいんだ、僕は誰かの影でいい。みんながそれで、幸せになるんなら」
応が言い切ると、友愛の泣き声も止んだ。
「思いあがらんといて」
友愛の腕が、するりとほどけた。
解放された応は、そのまま茶碗を抱えて出ていこうとする。
「そんなんじゃない、僕はただ……」
「そういうんが思い上がりやねん。みんなのために頑張ってますっちゅうの、うちメチャクチャ嫌いなんや」
背中から罵声を浴びせながら、友愛が笑っているのを応は知らない。
売り言葉に買い言葉で言い返す。
「嫌いでいいよ……好きな人、いるんだろ」
そこで初めて、友愛は真剣に怒った。
「何でそこで傑が出てくんねん! 分かったわ、持って行き! その茶碗。ここに置いといたら、ウチが割ってしまう思うてんのやろ!」
「よく分かってるじゃない、自分のこと」
後ろからではよく分からないが、声からすると、どうやら応は笑っているようであった。
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