第47話 危機を前に、遠くの猫は慌て、近くの猫は悠長に構える

 虎徹は呻いた。

「たいへんなことになっちまったな、こりゃ」

 猫にだけ感じ取ることができる、竜巻のような渦。

 それは、唐鼓の地の底へ流れ込もうとする茶碗の抱えた思いによって引き起こされたものである。

 それはまた、封じられた場所からあふれ出そうとする「禍事」の奔流によって生まれたものである。

 焦る孫六の声が聞こえる。

「なに呑気に構えてんねん! アレがもう、形になってるやないかい!」

 さらにそれは、太古からこの地に抑え込まれてきた悲しみや嘆きといった、負の感情の塊ともいえた。

 それは今、茶碗ひとつに込められた怨念をきっかけに荒れ狂いながら、唐鼓の街を中心として、外へ外へと広がっていこうとしていた。

 その危機を訴える孫六に、虎徹はゆったりと答えた。

「ああ、大きさも相当なもんじゃねえか」

 その様子は、地面の上にいる虎徹にさえも分かっていた。

 ましてや、「禍事」が封じられている「幽世」を通して語り掛けてくる孫六の目には形をとって、よく見えているはずだった。

 苛立つ声が虎徹を急かす。

「早よ何とかせえ! 間に合わんようになるで!」

 確かに、危険極まりない兆候であった。

 封じられた場所で積もりに積もった人の思いは、解き放たれることを求める。

 すると何が起こるかは、虎徹の目の前で起こっていることが物語っている。

 大雨が降ると、せき止めた川の水が堤を破り、その流域の田畑や家々を押し流してしまうことがある

 この渦もまた、人の抱えた恨みつらみや悲しみを、次々と引き寄せては飲み込み、さらに大きくなっていくことであろう。

 今は、唐鼓の街の中の殴り合いで済んでいる。

 だが、放っておけば、街の周りの人々の暗い思いを引き寄せ、東京から関東全体、いずれは日本そのものさえも混沌の中へと沈めてしまうかもしれない。

 何もかも虎徹任せにして悠然と構えていた孫六は、事が切羽詰まってきて初めて、慌てはじめたようだった。

 そこへ、虎徹がぼそりとつぶやいて答える。

「慌てんでええ」

 平然としたものであった。 

 こんなことは、凍えた魂を抱えた人やモノが送られてくるたびに、この街で何度となく起こってきたことだからである。

 そのたびに、荒れ狂う「禍事」を鎮めてきたのは、「清め」と呼ばれる、選ばれた男だった。

 日本中にいる、そんな男たちのうち2人が、今、この唐鼓の街にいる。

 ただし、両方とも寝てしまっているが。

 さすがに、普段は眠っている「清め」としての力が目覚めるには、まず、本人が目を覚ましていないとどうにもならない。

 家の中に駆け戻った虎徹は、畳の上に跳び上がると、横になったままの徹と井光を起こしにかかった。

 「禍事」に捕らわれた者どもの心を清めて、正気に戻すことができるのは、この男たちだけなのである。

 かつて、それぞれの妻となる女性たちを、そして昨夜、彼らの子供たちを夜の暗闇の中で襲った影は、「禍事」が引き寄せた情欲が形を取ったものであった。

 それらを雲散霧消させたのは、「清め」たる彼らが持つ力なのである。

 だが、今、ここでそれを発揮するのはなかなかに難しそうであった。

 ふたりとも久々に呑んだせいか、たかが1升の酒は、思いのほか心と身体によく回っているようだった。

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