その恨み、猫と酔っ払いのオッサンが浄めます
兵藤晴佳
第1話 来訪者に危機が訪れる
ある年の5月初めのことであった。
国民に景気よく与えらえた10連休の初日のことである。
よく晴れた青空の下、古ぼけた瓦やトタンの屋根がずらっと並ぶ狭い道を、1匹の灰色猫がとことこ歩いていた。
先に言っておくと、この猫は吾輩である。
名前を虎徹といって、語り手自身である。
これ以後は名乗らないので、その辺りはご了承願いたい。
さて、この猫の目にも寂れきった街にあるのは、平屋の民家か、住居を2階に置いた店舗がせいぜいである。
ほとんど人通りはないが、それは無理もない。
総人口は2000人あまり、さらに最寄りの駅まで30分は歩かなくてはならず、電車もほとんど停まらないのだ。
だが、ついさっき、この街に足を踏み入れた者が2人あった。
「ほんまにここで間違いないんかいな」
そう言うひとりは、革の鞄を提げた、背広姿の中年男。
「間違うてたらよそ探したらええねん」
そう答えるもうひとりは、デニムの小さなカバンを肩から提げた娘である。
この街の名は、
東京都の片隅にある
この猫はたまたま、少女の黒く短いスカートの足下にやってきたが、その上に伸びるすらりとした脚を見ずともよいし、見る気もない。
見上げれば、この少女は黒髪だけで充分に人目を、いや、猫の目さえも引くほど美しかった。
その豊かな胸の辺りに抱えた小さな竹籠には、「古道具売ります」の札が掛かっている。
生活に困って、家に伝わる骨董の買い手でも探しに来たのだろうか。
さて、こうした善良な人たちが見知らぬ街で出くわす災難は、通りすがりに絡んでくるガラの悪い男たちと相場が決まっている。
その中のひとりが娘の胸元を見て口笛を吹くと、中年男は少女に囁いた。
「相手にしたらあかんで」
よせばいいのに、少女はヤクザたちの後ろから、何やらぼそりとつぶやく。
たちまちのうちに、男たちが形相を変えて振り向いたかと思うと、ドスの利いた声で口々に凄んだ。
「どこの他所モンだ、おい」
「誰に断ってもの売ってんだコラ」
「俺なんぞ客じゃねえってどういうことでえ」
脅し文句としてはこれ以上はないくらいに月並みだったが、それでも、娘の傍らの中年男はベタな大坂弁で卑屈なまでに媚びる。
「いや、そないなことあらしまへんがな」
そこでしれっと口を挟んだ少女は、どうやらこの男の娘らしかった。
「籠の中の茶碗がしゃべったんちゃうの、お父ちゃん」
その皮肉は、ヤクザに聞かせていると言った方がよい。
すかさず、父親と思しき中年男は下手に出た。
「へえ、実は私もここの出でおますのや」
言葉は穏やかだったが、傍で聞いていても腸が煮えくり返るようなバカ丁寧さであった。
そこへ、娘がツッコミを入れる。
「バレバレやんか、よそ者やて」
しゃべくり漫才並みに絶妙な間であった。
豊かな胸と一緒に、両手で抱えた竹籠が揺れる。
そこで、父親が慌てた。
「ああ、その茶碗はお得意さんの」
どうやら、籠の中には売り物が入っているらしい。
だが、娘は晴れやかな声で答えたものである。
「ちょうどええわ、割れてしもうたほうが」
「何言うてるねん、おとろしい茶碗なんやど、これ」
父親がどれほどうろたえても、娘は恐れる様子もない。
「お客にも言い訳立つやんか、ヤクザにやられましたちゅうて」
全く無視されたならず者のひとりが、誰がヤクザだ、と目くじらを立てる。
凄まれて縮こまる父親の傍らで、高校生くらいの娘はうるさげに眉をひそめた。
「他に見えるん?」
その視線の彼方には、白くペンキを塗りたくった自転車があった。
近くにある駐在所か派出所の巡査が、平屋の密集する路地を横切るところだったのだ。
それを目で追いながら、娘は更に悪態をついた。
「こんなカルメラ焼きの屋台もないような田舎の裏道で古道具叩き売って何があかんのん? 文句があんねやったらポリのひとりも連れてきたらええやんか」
甲高い声で喚くのは、明らかにこの巡査を巻き込むための挑発である。
だが、同じくらいの大声を上げて助けを求めたのはヤクザたちのほうであった。
「おーい、お巡りさーん!」
これが合図だったのであろう。
真っ白な自転車が、キーコキーコと音を立ててやってくる。
だが、巡査は無言のまま、自転車を漕ぎ漕ぎ、娘の前を素通りしていった。
そこはさすがに、唐鼓の街であった。
総人口のうち、カタギ3割、ヤクザチンピラ合わせて7割の人口比は伊達ではない。
ただし女性はほぼカタギ、男は年齢を問わずこの比率と考えてほぼ間違いないと言ってよい。
つまり。
こんな街では、警官も小さないざこざは見て見ぬふりをするのだ。
ヤクザのひとりがすかさず、籠を抱えたしなやかな腕を掴んだ。
娘が低い声で拒む。
「離してんか」
その意外に鋭い眼差しに一旦は怯んだものの、国家権力の末端を味方につけたヤクザは横着極まりない。
あっとごめんね手が滑っちゃった、と離した手が豊かな胸に伸びる。
「きゃっ!」
娘が悲鳴を上げると、その弾みで、小さな籠が地面へと滑り落ちた。
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