第15話

 祝言を挙げる間、私は、ただひたすら、懐刀を抜く期を伺っていた。

 だが、思いのほか、その期は得られなかった。夫と、旦那様と面と向かう機会が殆ど無かったからだ。

 その期が訪れたのは、祝言が終わり、白無垢を脱ぎ、寝所に入ってからだった。


――それで、刺せたの?――

 刺せなかった。懐刀を抜く事さえ出来なかった。

――何故?――

 思い出したのだ、いや、気付いていて、気付かない振りをしていたのだ。

 私は、あの時、旦那様が父の墓に手を合わせるのを初めて見た時、既に気付いていた、思い出していた。

 あの時、網に捕らわれた私を素手で掴み、網の外に投げたのは、旦那様だった。あの時見た子供の顔は、その時見た旦那様の顔と瓜二つだった。そして、あの時は分からなかったが、その時は分かった、思い出したのだ。あの時、旦那様が何と言ったのか。

「お逃げ、もう捕まるんじゃないよ」

 あの時は分からなかった、だが、人の言葉を知った後なら、その時なら、それが分かった。

 私は、それを、ずっと気付いていないと、自分に言い聞かせてきた。だが、もう、この夜は、自分を誤魔化せなかった。

――旦那様を、愛していた?――

 そうなのだと思う。私は、鯰の化生だ。愛などというものは知るはずが無かった。だが、人に化け、人として暮らし、あろうことか人の心まで身につけてしまったらしい。

 それが、口惜しい。哀しい。苦しい。

 それさえ無ければ。

 私は、父の仇を討ち、そのまま父の元に還ることに何のためらいも無かったろうに。

――父を、主を、愛していた?――

 間違いないと思う。私は、鯰の化生だ。愛などは知らぬはずだが、絆は知っている。絆を、人の言葉で愛というなら、そう言うことだろう。

――板挟みね。辛い?――

 ……身が裂ける程、辛い。そうだ、私は旦那様を愛している。子も成したし、子も愛している。だが、父も愛している、今もだ。だから……

――旦那様が、憎い?――

 ……憎いと思っていた。憎いはずだった。けれど、憎めない。旦那様も、他の者も。

 分かってしまったのだ。誰も、どんな生き物も、他者から何かを奪わなければ生きていけないのだと。私だって、小魚を、エビを、カニを喰っていた。人に化けてからも、肉も魚も鳥も喰った。米も野菜も同じ事だ、喰われなければ、また次の年に芽吹くはずのものを喰っていることに違いは無い。すべての生き物は、植物だって、無自覚にそうして命を繋いでいる、ただそれだけの事なのだと。

 その上で、旦那様は、手を合わせてくれた。皆は、喰らう前に「戴きます」と言ってくれた。そう言うことなのだ……

――旦那様を、許す?――

 許すとか許さないとか、そう言うことでは無いのだ。喰うために、殺す。それは、仕方のない事だ。だが、それを分かって上でも、やはり辛い、父に申し訳が立たないのだ。沼が埋め立てられ、今またそこにマンションが建つとなれば、仇も果たせず、どうやって父に詫びたものか、もうわからないのだ……

「……それだわね……」

「合点が、いきましたな」

 聞き覚えのある声がして、ふと私は我に返る。

 目の前には、ケアサービスの若い職員と、昼間出会った僧侶が立っている。

 驚いて周りを見回した私は、自分がマンション建設現場に立っている事に気付き、そして。

 私の隣に、旦那様もいる事に気付いた。

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