第12話

 奉公に入って三年ほどした頃の事だ。私は、一人でどこかに出かける坊ちゃんの後を付けた。多ければ毎日、少ない時でもに三日と空けず、何をしに行くのか、ふと「ぼっちゃん」が居なくなるのは以前から気付いていた。初めのうちは人の暮らしに慣れるのに精一杯で気に留めていなかったが、三年も経てば人の暮らしも板につく。そうなると、「ぼっちゃん」の行動が何か不自然なことが分かってくる。だから、その日、私は後をつけてみたのだ。


 私はすぐに、「ぼっちゃん」が向かう先が沼の方角だと気付いた。地主の屋敷から沼まで、子供の足でも三十分もかからない。沼は、子供の遊び場でもあったし、大人が釣りをする場所でもあったから、そこに行くのは不自然はない。だが、いつも「ぼっちゃん」は小一時間ほどで帰ってくる。それが不自然だと思う程度には、私は人の暮らしに慣れていた。


 「ぼっちゃん」が居たのは、沼の水源、湧き水の出る泉のほとりだった。手を合わせ、しゃがみ込んでいた。

 私の中の何かが、見てはいけない、触れてはいけないと言っていたのを覚えている。あれは恐らくは、私の中の本能、復讐心だったのだろう。だが、同時に、私は好奇心を抑える事も出来なかった。その程度に、私は既に「ヒト」だった。


 草を踏む私の足音に気付き、坊ちゃんは顔を上げてこちらを振りむいた。

「……なずな。呼びに来たの?」

 坊ちゃんが微笑む。愛らしい微笑みだった、後の私はそう思い出すが、その頃の私には、その時までは、微笑みは無意味だった。

「何を、なさっていたのですか?」

 私は率直に聞いた。敬語は教わっていた。

「主さんに、お参りしてたんだ」

 主。その言葉に、私の体が痺れた。

「昔、僕たちはこの沼でいっぱい魚を捕ったんだ、その時、とびきり大きな鯰がいたんだ」

 私の中で記憶が蘇り、感情が弾けた。弾けすぎて、体が動かなかった。

「戦争が終わって、空襲はなくなったけど、食べる物もなかったんだ。だから、みんなで分けて食べたんだ。だけど、あんな立派な鯰、きっと主だったんだろうって。だから、みんなでここにお墓を作ったんだ」

 坊ちゃんが指差す所に、一抱え程の石があった。

「お金も物もなかったから、石しか置けなかったけど、父さんは、いつかここに祠を作ろうって。あの時獲れた魚のおかげで、村のみんなが飢えなくて済んだんだからって。だから、みんな忙しくてなかなか来れないから、僕だけでも、なるべく毎日お参りしようって決めてたんだ。おかげでみんな助かりました、って……なずな、どうしたの?」

 私は、鯰だ。だから、泣いた事も笑った事も無かった。笑ったふり、泣いたふりをした事はある、笑うべき時に笑わないと、泣くべき時に泣かないと、人の世では暮らしていけないから。だが、涙を流した事はなかった。

 その時、初めて私は涙を流した。心から泣き、笑ったのだと思う。感情が爆発してしまって、良く覚えていない。ただ、坊ちゃんが驚き、慌て、困ってしまっていたのは覚えている。その有様がおかしくて私はさらに笑い、そしてさらに泣いた事も覚えている。


 多分私は、私の心は、その時、ヒトになったのだと思う。私はその時、姿形だけでなく、心から人に化けたのだと思う。

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