第11話
私の記憶、私の夢は、いつもここから始まる。
人の仕掛けた網。人間に掴まれば、殺され、喰われる。それは、幼い私でもよく知っていた。捕らわれた父の目が、何としてでも逃げよ、生きよと語りかける。そして、私の体を掴む、熱い何か。
水から引き上げられた私の目に映る、人間の子供。その口が、動く。何かを、私に語りかけている。だが、その頃の私は、人の言葉は分からない。私はただ、父の言いつけを守るため、もがき、あばれ、噛みつこうとし、偶然、その人間の子供の指を噛む。口の中に広がる、鉄の味、人間の血の味。そして、私は水の中に、網の外に投げ出される。人の手に直に掴まれた体のあちこちが熱い。
私は必死に逃げる。生まれ育った、暮らしやすい沼を離れ、流れの強い、暮らしにくい川へ逃れる。
人への、復習を心に刻んで。
いつしか、私は人に化ける事を覚えていた。父にも出来なかった事をどうして幼い私が出来るようになったのか、私には分からない。今まで生きてきて、その中でたまたま出会った別の魚の化生、人に化けていたそれが言うには、恨みと共に口にした人の血のせいではないか、という事だったが、正直、私にはどうでもよい事だった。
まっとうな人の姿に化けるのに三年、人として生きるために必要な知識を得るのにさらに三年かかった。そして、私は、生まれ育った沼の近くにある村の地主の家に、戦災孤児として奉公に入る事が出来た。
終戦、人間同士の愚かな戦からから六年経っていたが、まだ戦災孤児はそれほど珍しいものではなかった。そういう時代だった。だが、明らかに景気は上向き始め、働き手が必要な時代でもあった。それらは、すべて後から知った事だったが、その頃の私には好都合だった。私は、人の子供として、下働きとして、その地主の家の一人息子の身の回りの世話をする仕事を与えられた。人の歳なら十になるかならないかの私には、その程度しか出来る仕事もなかった。
私は必死に働いた。生きる糧を得るためでもあったが、失敗して放り出されない事の方が大事だった。そして、何とかして人間の信頼を得て、この家に居続け、最も効果的なタイミングを見計らって父の仇を討つ、それこそが最も大事だった。
だが、そんな私の腹づもりを知らない人間は、働き者だ、小さいのに大したものだと褒め称えた。
そうだ、褒めるがいい。私に信を置くがいい。お前らにとって最悪の機を見て、私はその信を裏切ってやる。私は、ただそれだけを考えていた。
私は、「なずな」と名乗っていた。奉公に入る時、名を聞かれ、まさか鯰とは答えられずに「なま……な……ず……」と言い淀んだのを、「なずな」と勝手に人間が聞き違えたのだ。だが、丁度よかったのでそのまま「なずな」で通す事にした。名字など無かった、知らないで通した。それでも、戦災孤児ならそういうものかと、有り難い事に誰も不思議がりはしなかった。歳も、人間が、勝手に八つくらいではないか、と言っていたので、そのままにした。名前も歳も、私にはどうでもよい事だったが、人の中で生きて行くには必要な事だという事は分かっていた。
私の仕事は、「ぼっちゃん」の身の回りの世話をする事、布団の上げ下げをし、着物を用意し、食事を用意し、その他雑用をすることだった。「ぼっちゃん」は、八つで奉公に入った私より四つ年上であったが、この「ぼっちゃん」は手がかからなかった。大旦那様のしつけがよかったのだ、というのは、もっと人の世に詳しくなってから分かった。大旦那様は、いずれ地主として自分の後を継がせるため、小作人とも役人とも良好な関係を築くため、必要な教育を幼い頃から「ぼっちゃん」に施していた。だから、私は、私の仕事、布団の上げ下げや食事の後片付けを取られないよう、「ぼっちゃん」の先回りをする必要さえあった。
だから、幼い私は決めたのだ。この「ぼっちゃん」を、いずれ殺そうと。跡目を継ぐその時に。父を失った私の、主を失った沼の仇を、跡継ぎを失う事で思い知らせようと。
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