短編集

松宮凪

雨の降る休日

 仕事終わりにふらっと立ち寄った本屋である一冊の本に目がとまった。その本のタイトルも作者も聞き馴染みのないものであったが、表紙に描かれた少女があまりに儚く、かといって決して弱々しいわけではない、どこか覚悟を決めたような表情をしている。彼女が何に出会って何を思いどうしてこのような表情をするに至ったのか、妙に気になってしまい、気がついたらレジで会計を済ませブックカバーもつけてもらっていた。

 最寄り駅までの電車で購入した小説の冒頭を読んでみると、思いの外面白い。これは本腰を入れて読まなければならないな、と本を閉じ鞄にしまって代わりにスケジュール帳を取り出し明日の予定を確認した。幸いなことに今日は週終わりの金曜日、明日は今の所特になんの予定もない。ここ最近は天気も悪く、回復する見込みもないため、絶好の読書日和である。

 心なしかわくわくしていたのだろう、先に帰っていた恋人は顔を合わせるなり少し驚いた顔をして僕に訊いた。

「今日はなんだか嬉しそう。何かいいことでもあったの?」

「いいこと、なのかはわからないけれど。この本が、電車の中でちょっと読んでみたら思ったより面白そうで。明日読んでみようと思ってるんだ。」


 次の日、休日の僕にしては珍しく、朝ごはんを食べ食器を洗うところまでテキパキとこなし、洗濯物を干している恋人の分も珈琲を淹れて、ようやっと昨日買った本に着手した。読み始めると、昨日も思ったがやっぱり面白い。表紙の少女はどうやら物理学を専攻している大学生のようで、それ故ところどころ難しい単語も出てくるのだが、話の流れが自然だからかはたまたその少女に興味があるからなのか、不思議と水が喉を滑り落ちるようにするすると内容が入ってくる。次は次は、と夢中でページをめくっていたからか、呼びかけられるまで洗濯物を干し終えた彼女が目の前に座ったのにも気がつかなかった。

「珈琲淹れてくれたんだ、ありがとう。その本、面白い?」

「うん、予想以上だよ。いい買い物をした。あ、こちらこそ、洗濯物ありがとう。」

「そうだ、その洗濯物なんだけどね。」

彼女が窓の方へ顔を向け、僕もつられて外を見た。相変わらず雲がかかっていて薄暗い。

「ほら、今日こんな天気だから。もし雨が降りそうだったら洗濯物を取り込んでもらいたいんだよね。」

僕は手に持っている読み途中の本を見て少し考える。

「いいけど、もしかしたら本に夢中で気がつけないかもしれない。どこか行くの?」

「そう、ちょっと買い物をしたくて。夕ご飯の時間までには帰るつもりだから、お昼ご飯だけ適当に一人で食べてもらってもいい?」

 この天気なのにどこまで行くんだろう、とか、何を買うんだろう、とか気になることはあったけれど、本の続きの方がより気になって、「わかった」とだけ告げて再び本に目を落とした。

 彼女はそれから30分後くらいに家を出て行った。


 本を読み終えたのは17時ごろ、あれから用を足す以外で席を立たずに熱中していたせいですっかり身体は凝り固まってしまっていた。本は最初から最後まで期待を裏切らず、読み終えた今は最初に見たとき以上に表紙の絵が好きになった。ほの温かい余韻に浸りながら身体をほぐすために立ち上がって首を回していると視界の端に窓が映り、思い出した。

「あ!洗濯物!」

外は相変わらず薄暗いままだったが、朝最後に見たときとは違って小雨が降っていた。慌てて洗濯物を取り込むと湿ってはいるけれどそこまで雨で濡れた様子はない。これなら洗濯し直す必要もないか、と胸を撫で下ろし、浴室乾燥器に移動させた。

平日は大抵彼女の方が帰りが早い。そのため、夕ご飯の準備は平日は彼女が、休日は僕がするのが暗黙のルールとなっている。今日はなんだか肌寒い。ひとしきり材料が揃っているからハヤシライスにしよう、そう思って野菜を取り出し切ろうとしていた時、急に雨音が激しくなった。

 そういえば、彼女はいつ帰ってくるのだろう。台所以外灯りを消した部屋が急に広く感じ始めた。表紙の少女はある事情で出会った多くの人々と唐突に別れざるを得なかった。僕はこれほどまでに本にのめり込むことは少ない代わりに、一度夢中になると周りが見えなくなってしまう。どうしても彼女が出かける時、行ってらっしゃいを言ったかどうか思い出せない。傘はちゃんと持って行っただろうか。せめてどこに行くかくらいは聞いた方がよかったのかもしれない。

 悶々としながらハヤシライスを作り終え、連絡をしてみようと思って携帯を拾い上げたあたりで玄関の方からバタバタバタという慌ただしい音が聞こえ、

「いやあ、降られた降られた!!!」

という元気な彼女の声が続いた。

「ごめん、タオル持ってきてくれない〜?」

無事に帰ってきてくれたという安心感と、相変わらずの忘れっぽさに気が抜けて、濡れ鼠になった彼女にタオルを渡しながら思わず笑ってしまったのは不可抗力だろう。

「なになに、楽しそうじゃん。本、面白かった?」

「面白かったよ。今日は何をしてたの?」

身を挺して守ったらしい比較的濡れていない鞄からゴソゴソと何かを取り出した彼女は満面の笑みで

「これ!あんまり面白そうだったからその作家さんの他の本を買ってみたの!あと、あなたの本、映画化しているらしくて、それも借りてきたんだ。後で観てみない?」

と言うものだから、いよいよ表情を保っているのが限界で、荷物は預かるから先にお風呂に入っておいでと急かし、なんとか緩んだ頰が見られない立ち位置に移動した。

 おっ今日はハヤシライス、と呟いて浴室に駆け込む後ろ姿が今日はやけに愛おしい。彼女もいつか唐突に本を買って帰ってこないだろうか、と思いながら読み終えた本を片付け、夕飯の支度に取り掛かった。

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