ひどいこと
モモンガ・アイリス
第1話
◇ ◇ ◇
美咲は十六歳で、彼氏だった同級生の男はいろいろ我慢していた。それは美咲にも判っていた。けれど、どうしても異性とそういう関係になることが――はっきり言えば、美咲にはおぞましかったのだ。
ぐっと腕を掴まれて顔を寄せられたとき、美咲にあったのは恋愛がもたらす高揚感ではなく、大量の甲虫に近づかれているような気持ちの悪さだった。
絶対に嫌だ。
ほとんど反射的に平手で頬を張り、ダッシュで逃げた。わざわざ隣町までデートに出かけていたので土地勘なんてなかったけれど、足が向くまま走り続けた。
といっても美咲はマラソン大会では間違いなく憂鬱を感じるタイプだったから、たぶん五分も走っていなかっただろう。繁華街を抜けて大きな通りを横切り、川沿いの道に出た頃にはもう徒歩に変わっていた。
息切れをどうにか沈めながら、美咲はそれでも足を止めず川沿いを歩き続けた。彼氏だった男がしつこく追いかけてくるとは思えなかったが、逃げたからには逃げ続けないわけにはいかなかったのだ。
秋で、空は嫌になるくらい晴れていて、走ったせいで少し汗ばんでいた。
歩き続けるうちに、胸の内で「やってしまったなぁ」という後悔に似た感情がやって来る。でもそれは
「あーあ……」
曖昧すぎる吐息を洩らすも、どういう溜息なのかは美咲自身にもさっぱり判らない。ひとつ確かなのは、これに関しては自分が悪い、ということだ。
こんなことになるなら、付き合わなければよかった。
告白されてOKしてしまったのは、なんというか、流れみたいなものだった。拒否してしまえば周囲があれこれ言うだろうし、それが億劫だったのも正直ある。
人付き合いというやつはとても面倒で、けれどもそれがなければ学校の中にいられない。そのことを考えるとまた憂鬱になった。
でも、本当に嫌だったのだ。
男の子とキスをして、いろんなところを触られて、その先に進むのが――美咲には上手く想像できなかったし、いざ眼前に迫ってさえリアルに受け止めることができなかった。ただ、嫌だと思った。
悪いことをしたなぁ、と思う。
でも、もう一度同じ状況になっても同じことをするだろう。五十回同じ状況になったとしても、たぶん。
――どうして自分はこんななんだろうか?
答えの出ない問いにさほど答えを出す気もなく、疑問符だけをふわふわと漂わせながら、しばらく歩き続けた。
川沿いの道はあまり人通りもなく、休日の昼間だというのに車通りも少ない。さらさらと穏やかに流れて行く川の水、中州にはわけのわからない草が茂っていて、ハトとカラスが漂着したビニール袋を仲良く啄んでいる。
汗が引いてきて、秋風の涼しさをようやく感じられる。
そのまま歩いていると川を横切る橋へさしかかり、歩道脇のフェンスにもたれかかっている女の子に気がついた。
背中まで届く長い黒髪。手足の長い、細い身体。美咲が涼しさを覚えた微風にすら流されてしまいそうな、そんな覚束なさが彼女にはあった。
美咲は彼女の名前を知っていた。
同じ学校の、隣のクラスの女子だから。
それが彼女の名だ。
風がそよぎ、髪がなびき、彼女の顔があらわになる。
殴られた痕のような青痣が見えた。
そして思ったのだ――彼女を殺したい、と。
◇ ◇ ◇
一ノ瀬葵という女の子は、学校ではそれなりに有名だった。
ひとつは大変な美人であること。
美人を美人と表現することほど愚かな行いはないのだが、そうとしか言いようがない。彼女の黒髪と細い身体はあまりにも絶妙なバランスを維持していて、十人中九人が息を呑んでしまう――そういうタイプの容姿をしていた。
うっかり触れるとなにかを損なってしまうような。
そんな外見。
もうひとつは、彼女が資産家の娘であること。
といっても、所詮は地方都市の資産家だ。県議の娘だとか市長の娘だとか、そういう立場ではないし、美咲が通うような普通校に通う程度の金持ち度合いである。それでも、明らかに生活レベルが違うのは判った。
だからというべきか、一ノ瀬葵は学校でも特に親しい人物はおらず、そのくせグループをつくらない者にありがちな浅い迫害なんかも受けていなかった。
美咲も彼女の存在を知ってはいたが、それだけだ。
絶妙なバランスを維持している身体の上に乗っかった小さな頭、そこに貼り付けられた一ノ瀬葵の相貌はいつもツンと澄ましていて、気軽に話しかけられる雰囲気なんか欠片もなかったからだ。
何故、このとき話しかけたのか?
判らない。そうしないわけにはいかなかった。火に飛び込む虫みたいに、ふらふらと近づいて、話しかけてしまった。
「一ノ瀬さんじゃん。なにしてるの?」
知り合いとコンビニで合ったくらいのテンションで――そう見えるように努力して――言ってみたが、胸の内では煩いくらいに鼓動が鳴っていた。
どうして?
判らない。
でも、とにかくドキドキしていた。
一ノ瀬葵はそんな美咲へ顔を向け、とても興味なさそうに頷いた。
「ああ、どうも。佐倉さん」
普通に返事をしてくれたことにも驚いたが、美咲の名を知っていたことにも驚いた。同級生ではあるものの、何処か遠い場所にいる女の子だと思っていたから。
「どーも。それで一ノ瀬さん、なにしてるの?」
身長の関係でちょっとだけ見上げる形になった。
細い顎や、形の良い鼻筋、そして美咲にはなんの興味もないのがありありと判る瞳。そっと手を伸ばして形をなぞりたくなるような造詣だと思った。
「特に。ぼんやり川を眺めてるだけ。そっちこそ」
さくさくと具材を切り分けるみたいに葵は言う。
その口調と眼差しに、美咲の心臓はまた音を立てる。
「まあ、ちょっとね。彼氏にビンタして逃げて来たところ」
「ふぅん?」
ほんのわずかだけ目を開く。初めて見る表情だった。
自分に興味が向いた――それがどの程度なのかはともかく――そのことが美咲の鼓動を少し煩くさせる。
「そっちこそ、これ、どうしたの?」
言って、美咲は自分の頬を指差した。右目の下、ちょうど葵の青痣がある位置。
葵は開いていた瞳を細め、わずかだけ嫌そうに肩を竦める。
「父親に殴られただけ」
「ふぅん?」
きっといろいろあるのだろう。
そう思って、でも美咲はなにも言わなかった。
「佐倉さんの方は? どうして彼氏に平手打ちなんてしたの?」
仕返しとばかりに踏み込んでくる。
それが、どうしてか、美咲の胸を騒がせた。
だから――だろうか。
鼓動に浮かされるみたいに口が軽くなる。
「キスされそうになって……なんか、我慢できなくて……我慢してするようなものじゃないと思うけど……で、気付いたら、こう」
ぶん、と手を振る。
葵はまるで塩味の砂糖菓子でも舐めたような顔をする。
「恋人と、キスしたくなかったの?」
「どうだろう。結果的にはそうなっちゃったけど、タイミングが違ったら素直にキスしてたかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「なにかタイミングが違ったら、私も父親に殴られなかったかも知れない」
そしてもう、そのことについては手遅れだ。
お互い言葉には出さなかったが、美咲には意味がはっきりと掴めたし、たぶん葵も同じ意味を共有できていた。
コンクリートを割って茎を伸ばす植物があったとして、その花のつぼみが開く瞬間を二人一緒に目撃したような。
わけの判らないナニカが、共有された。
それはもう、確信だった。
ふと気付いたときには、葵の細い指先が美咲の顎を掴まえていた。顔を上げればあまりにも整った相貌が近づいていて、唇と唇が触れ合うまでには呼吸一回分の時間も要らなかった。そっと触れて、そっと離れていく。
熱くも冷たくもない唇だった。
「……平手打ちしてもいいのに」
ぼんやりと葵を眺めていた美咲に、そんなことを言う。
でも違う。平手で顔を殴りたいわけじゃない。
ナイフを持っていれば良かったのに、と美咲は思った。
◇ ◇ ◇
翌日、美咲は「ごめん」と言って、それで彼氏だった男はいろんなことを諦めてくれた。死ぬほどほっとした自分に気付き、ひどく落ち込みそうになった。
学校のグループでは事の顛末を語らないわけにはいかず、先の一件はどちらかといえば美咲が悪いという話で落ち着きそうだった。それは美咲を落ち着かせもしたし、同時に憂鬱さを抱かせもした。
この小さなコミュニティの中で人間関係について悩んだり、現実的な不利を押しつけられたりするのは、あまりにも莫迦らしい。
なんというか、そういったことの全てが美咲には遠い出来事のようだった。
彼氏だった男に謝る瞬間でさえ、肉体と魂が五センチくらい離れているような気分でいたのだ。こんなことはどうだっていいんだ――そんな感じ。
触れられた唇の感触だけが美咲を支配していた。
また触れたい、触れて欲しい……そんなことを考えると胸の奥がまた騒ぎ出す。
そしてやっぱり、一ノ瀬葵を殺したくなった。
どうして?
判らないけれど。
◇ ◇ ◇
それから一週間ほどして、思った通りにグループ内での居心地が悪くなった。
というのも、美咲が振ってしまった男のことを好きだった友達がいて、そもそもはその友達に気を遣う形で――なんだかおかしな話になるが――付き合うことになったのに、結局は美咲のワガママで振ってしまった。
しかし正直なところ、美咲には半ばどうでもいいようなことだった。
五センチのズレを感じながら日常を送り、とうとう我慢できなくなって例の橋に向かったのが、ちょうど一週間後の今日というだけの話だ。三日後だろうが五日後だろうが、きっとなにも変わらなかっただろう。
とにかく。
放課後になって、家に帰って着替えを済ませ、ポケットにカッターナイフを放り込んでから家を出た。連絡先なんて知らなかったし、なんの約束もしていない。けれど間違いなくそこにいるという確信があった。
たぶん、二日前も、三日前も、昨日だって。
待っていたはずだ。
待たせているのを知っていた。
◇ ◇ ◇
「ねえ、どうしてまたここに来たの?」
橋のフェンスに背中を預け、夕暮れの秋空へぼんやり視線を注ぎながら葵は言った。呟きを空へ放り投げるみたいに。
「逆に訊くけど、どうしてここで待ってたの?」
と、美咲もまたフェンスに背中を預けて言った。肩と肩が触れ合う距離で、空を眺める葵の横顔を見ながら。
「……すごく、暴力的よね」
溜息のついでみたいに葵は言う。
言葉足らずにも程がある彼女の言葉を、けれど美咲は正確に理解できた。そして全くの同感だった。これは本当に暴力みたいなものだ。足音を忍ばせて背後から近づいて、硬く重いモノで頭を殴られるのとなにも変わらない。
一週間、我慢した。
だから――砂漠で歩き続けたみたいに、乾いている。
「一ノ瀬さん。私、あなたのこと全然知らない」
言って、美咲は葵の方へ少しだけ体重を預けた。
触れ合った部分が、衣服越しだというのに熱を持つ。
「そんなの、私だって。隣のクラスで、人気があるグループにいて、ちょっと背が低くて、彼氏にキスされそうになったら平手打ちして逃げたことしか知らない」
「だって、すごく嫌だったの」
向けられた欲望を――あるいはそれを愛情というのかも知れないけれど――受け入れることが美咲には出来なかった。
なのに。
今は、なにも知らない女に同じものを向けて、向けられている。
学校で感じていた五センチのズレなんて、今はない。
ちょっと顔を上げれば、頬の青痣はもう随分と薄くなっていた。葵が美咲の視線に気付き、お互いの視線が絡み合う。自分たちが同じモノを同じように相手へ向けているのが明確に理解できる。
触れ合っている肩の場所から手探りで腕を取り、そこから下って葵の手に手を重ねる。なにも言わずに握り返してくれて、また胸の奥が騒ぎ出す。
美咲は逆の手でポケットに忍ばせたカッターナイフを掴む。
ポケットの中でカチカチと刃を伸ばす音は、葵に聞こえただろうか?
「ねえ、ひどいと思わない?」
そう言ったのはどちらだったか。
今すぐ葵の首に刃をすべらせたい。
でも違う。
本当は、もっと頑丈なナイフを握らせて、胸に突き立てて欲しいんだ。
それが叶わないなんて、判りきっている。
カッターナイフの刃を戻しながら、美咲は目を閉じて葵の唇を待った。
触れて。
触れないで。
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