嘘の代償②




人の一生は、記憶の積み重ねで成り立っている。 家族も友達も、昨日までの記憶を全て失ってしまえば霧散してしまうだろう。 仲のよさも、血の繋がりも、記憶の前ではちっぽけなものに過ぎないのだ。

もっとも、記憶は失いたくて失うことはできない。 忘れたいことも忘れられない。 だが、ここにいる少女は憶えておきたくても忘れてしまう大病を患っていた。






ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から陽光が零れている。 真鈴(マリン)は腕を大きく伸ばすと、身体を起こした。 


―――んっ、もう朝かぁ・・・。


窓を開けると、気持ちのいい風が吹き込んでくる。 至って平凡な朝、そう思えた。


―――よしッ、今日も頑張ろう!


まずはお手洗いへ行こうと、ドアの前まで移動する。 すると、大きな張り紙が目に飛び込んできた。


『朝起きたら 机の上にあるノート を必ず見ること!』


―――ノート?

―――昨日、そんなものを用意したっけ・・・。


全く憶えていないことに困惑しつつも、机の前まで行きノートを見る。 そこには昨日の自分から、今日の自分宛にメッセージが書かれていた。


『真鈴へ 真鈴は人のことを憶えられない障害を持っています。 日常生活に関することや、勉強、そういったことは憶えているけど、一種の記憶喪失みたいな状態になっています。 

 ただ、あまり悲観的にならないでください。 これまでずっと頑張ってきたのだから』


「人のことを、憶えられない・・・?」


真鈴は二度、三度とそのメッセージを読み返した。 意味を理解することはできるが、状況を理解することができなかったのだ。 そこで試しに、両親の顔を思い浮かべてみる。


―――・・・思い、出せない。

―――そもそも、私に両親はいるのかな。


ノートには続きがあり、捲ると色々な情報が記載されていた。


『ちゃんと両親はいますから安心してください。 キッチンで朝ご飯を作っているのがお母さんで、テーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるのがお父さん。 

 二人はもちろん、真鈴の事情を知っている。 だから元気に“おはよう”って話しかけてみて。 そしたらきっと、笑顔で応えてくれるから』


複雑な気分だ。 まるで家族というものを、上から見せられてそこに入っていくような感じがする。


『登校する時、家に迎えに来てくれるのが親友の美樹ちゃん。 美樹ちゃんも真鈴の事情を知った上で、仲よくしてくれている。 友達は大切にしてね』


他にもいくつか書かれていることがあったが、他の友達については何も書かれていなかった。 毎日思い出す人数を増やすと、日常の維持が困難になってしまうという理由からだろう。


―――洗面所の場所は、ちゃんと憶えている。

―――学校までの道のりも憶えているのに、どうして人だけ・・・?

―――何か、不思議な感じ。


私服に着替えると、リビングへ向かった。 ノートを思い出しながらドアを開く。 そこには、ノートに書かれた通りの光景が広がっていた。 だが挨拶する勇気が出ず、ドアの前で立ち止まってしまう。

そんな真鈴を見て、新聞紙から顔を覗かせた父親が笑顔で挨拶をしてくれた。


「お? 真鈴じゃないか、おはよう」

「お、おはよう。 ・・・お父さん」


やはり複雑な気分だ。 自分は全く憶えていないのに、これを毎日繰り返しているという事実。 おそらくは昨日の自分も、こうして不安気に挨拶したのだろう。


「あら、真鈴起きたの? おはよう、外はいい天気よ」

「お母さんも、おはよう・・・」


気まずいながらもテーブルへ近付く。 どこに座ろうかと迷ったが、何故か身体は自然と父の隣の椅子に行ってしまった。


「・・・お、お父さん。 ここ、座ってもいい?」

「あぁ、もちろんだよ。 そこが真鈴の指定席だからな」

「・・・うん、ありがとう」


食事の準備はまだできていない。 これも自分が来る時間がまちまちなので、おそらく待っていてくれたのだろう。 台所を見れば、料理自体は完成しているようだ。


「お母さん、何か手伝えること・・・ある?」

「じゃあ、三人分のお皿を持ってきてくれる? あとコップも」

「分かった」


場所は分かっている。 両親もおそらくは私が憶えていることを前提にしているのか、普通に接してくれていた。 真鈴が不安を感じるように、二人もきっと不安を感じているのだろう。

そう思う両親と、一緒にいて嫌な気はしない。 寧ろどこか落ち着く自分がいた。 気を遣わない二人に、守られているような気にさえなる。


―――ねぇ、私はいつからこんな状態なの・・・?


ノートに書かれていなかったそれを、二人に尋ねたかった。 だが、聞けない。 聞けば、自分の中の何かが壊れてしまうような気がしたからだ。


―――常に笑顔でいることが大事って、ノートに書いてあった。


ノートには書いては消してを繰り返したような跡があった。 きっと過去の自分も試行錯誤して、辿り着いた結果なのだろう。 ならば今は、それを守ろうと思うことしか真鈴にはできなかった。



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