額縁の向こうの話

漆喰の壁に描かれていたのは、夜を渡る大きな魚だった。

細い三日月に照らされながら、オーロラのような輝く鱗を見せ付けるように、優雅に夜空を泳いでいく。

それはそれは見事な絵だった。


大きな筆を持った少年が目の前にたっている。薄汚れた、だぼたぼのTシャツ一枚で

惚けて絵の前にいる。


彼がこの絵を描いたのだ。

芸術だとか、売るためだとか、そんなものさえ投げ捨てて、彼は描きたいと思ったから、描いたに違いない。


でないと、探さなければ見つからない路地裏に、絵なんか描いたりしない。

殴り描いた魚は、生き生きとしていて、対して少年は、疲れ果てたように魚を見ていた。


私は駆け寄って、彼を抱き締めたくなった。

凄いね、他の誰にもこんなの描けないよ、と

誉め讃えたかった。


けれど私には、彼と繋がる言葉がない。

彼はどこまでも魚を見ていて、私に気付いてすらいないようだ。


魚はぴちゃんと真空を蹴りあげ、水素の飛沫をあげて泳ぎ、星座の瞬く海へ消えた。

そのまま帰ってこなければいいのにと、一握りの酷いことを思いながら、私は少年を見守った。


少年の筆はまだ乾いていなかった。

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