第89話 梓伊月は距離を置きたい

「……あ。梓じゃん。元気してたー?」


 突然の出来事に閉口するしかない俺。


 彼女――新垣紅葉の顔が目に入っただけで、あのトラウマが一瞬にして蘇った。


 全身に悪寒が走った。


「な、なんでこの学校に……」


「なんでって。他校の文化祭に遊びに行くくらい普通でしょ?今は一人だけど友達と来てるんだー」


 そうか。


 俺はあまり他校の文化祭に足を運ぶほどアクティブではないから察せなかったが。


 普通はあり得る話だよな。


 俺も中学の時の事件がなければ、今の新垣みたいに活動的だったのかもしれない。


 まあそれも紛い物だったから、一切惜しいとは思わない。


「ん?梓どうしたの?元気なくない?」


「いや、それは……あんなことがあったんだからさ……」


 あっけらかんに言う新垣に俺は呆れと驚きを覚えた。


 まるで、そんな昔のことまだ気にしてるの?とか言いそうな雰囲気だ。


 それほどまでにあの出来事はどうでもよかったことなのか。


 俺は多少の苛立ちを滲ませる。


「……用がないなら俺はもう行くぞ」


「あー!ちょっと待ってよ。久しぶりに会ったんだから何か話そうよ」


「話すことなんてないから。俺、忙しいし」


「わかったわかった。じゃあ一分だけでいいから」


「……わかった」


 話すって言ったって俺は新垣に何を話せばいいのか。あるいは何を聞けばいいのか。


 中学以来つながりがなかったんだから、話すことなんてそうないだろう。


 新垣と話していて、得になるようなことはなさそうだし、適当に話を終わらせて、さっさとこの場を離れよう。


 そう思い、俺は新垣の言葉に耳を傾けた。




「梓ってさ。今、恋してる?」




「はぁ!?」




 素っ頓狂な声を上げてしまった。


 対して、新垣は調子を変えず、あくまで世間話みたいなトーンで問いかけてきたのだ。


「何その反応。ウケる」


「ウケるって……。いや、驚くだろそんなこと急に言われたらさ」


「別に普通じゃない?恋バナくらい」


「そっちの普通を押し付けられても困る」


「前は押し付けられても困ってなかったでしょ?」


「……あんなことがあったからもう空気を読んで合わせるのは止めたんだよ」


「あんなことって……もしかしてウソ告されたのを引きずってるの?」


「まだって何だよ!!!」


 思わず声を荒げてしまった。周りの人がこちらを向くが仲裁に入るとかそういう様子はない。


 冷静さを欠いたと思う。


 でも悪いとは思わない。


 あれだけのことをしておいて、新垣はと言ったんだ。


 怒髪天を突く。


 何気に、人生で初めてその感覚を味わったかもしれない。


 俺は一度息を吐く。落ち着かせるためだ。


 それからゆっくり口を開いた。


「新垣にとって……あのことはとるに足らない日常の一コマにすぎなかったってわけか」


「そうだよ」


 困らせようと思って言った俺の言葉を迷いなく即答する新垣。


 虚を突かれたのはむしろ俺の方だった。


 そのまま、新垣は続ける。


「あんなのいつもの遊びの延長線じゃん。じゃんけんで負けた人がジュース買いに行くとかそういうのの」


「いや、は?」


「それなのに、梓がマジになっちゃってさ。わけわかんないから武たちに色々言われちゃったんでしょ?」


「俺が悪いみたいな言い方だな」


「みたいじゃなくて実際そうなの。ああいうの興ざめじゃない?」


「もういい」


「だからちょっと待ってって。まだ私の質問に答えてないでしょ?」


 立ち去ろうとした俺を阻んだ。右手首を強く掴んできた。


「恋してるかって?なんでそんなの新垣に言わなきゃいけないんだよ」


「別にいいじゃん。減るもんじゃないんだし。ここで終わると無視された感じで引き下がりたくないの」


「それはお前の都合だろ」


「誰とか聞かないから。イエスかノーかだけでいいからさ」


「あのなぁ」


 どうしたものか。


 まとわりつかれるのも面倒なので、さくっと答えてしまいたいところだが。


 無難にやりすごすなら「ノー」と言ってしまえばすぐに事が済む。


 でも。


 たとえ嘘だとしても、恋してないなんて言いたくなかった。


 事をやりすごすための方便だとしても、神楽坂に恋をしていないなんて言いたくなかった。


 だから俺は即座に答えることができなかった。


「へぇー何も言わないんだ」


「悪いか?」


「恋してないならしてないってはっきり言えばいいじゃん」


「わざわざ言うのもめんどうくさいだけなんだよ」


「私にはイエスって言ってるようにしか見えないんだけどなー」


「じゃあもうそれでいいから」


「そっか。それなら少し……残念かな?」


「残念?」


 新垣がやや首を傾げて呟いた。


「うーん。本当は合意のもとが良かったんだけど。梓が恋してるんだったら……奪うって形になっちゃうなー」


「は?何を言って――」


 俺が言いきる前に新垣は不意に顔を近づけてきた。換言すれば、唇を近づけてきたのだ。


「ちょっ……まっ……」


 あと数センチだった。


 ギリギリで俺は新垣の肩を押して、遠ざけた。


「い、いきなり何を……」


「えー?キスだけど」


「おかしい!絶対おかしいから!」


「うーん。ギリギリセーフじゃない?梓、童貞だしキスしたら簡単におちるかと思っただけだよ」


「その判断がすでにおかしいし。あと勝手に決めつけるなよ」


「え?違うの?」


「いや、そうだけど……」


「やっぱりね。だって真面目すぎるんだもん」


「何なんだお前は!いきなり現れたかと思えばわけわからんことしてくるし。何が目的なんだよ」


「目的かー。梓と付き合ってみたら何か面白そうだし、お試し?みたいな感じだよ?」


「新垣の恋愛観に俺は応えられそうにないな。これ以上絡んでこないでくれ」


「えー。いいでしょ?私、今一人でつまらないの。付き合ってくれたら、色んなこと……できるよ?」


 蠱惑的な表情を新垣は浮かべてくる。


 それでも俺の意志は揺らがなかった。




「新垣には興味がない。俺には大事な人がいるから……」




 明瞭に言い切った。


 真っすぐに目を射抜いた。


 これ以上ない本音。


 俺には神楽坂がいる。


 そう思っていたのに。


 新垣が発したこの言葉で、全身が恐怖に包まれる。




「……そう。その人に裏切られなきゃいいね」




 その程度の言葉で神楽坂を疑うなんてことはさらさらなかった。


 でも怖くなった。


 神楽坂が本当に俺を裏切るとかそういうのじゃなくて。


 仮に神楽坂に裏切られたときのことが一瞬よぎって、どうしようもない恐怖に駆られたのだ。


 神楽坂を好きだと自覚すればするほどその恐怖は強くなる。


 長い間関係を築いていた新垣にそう言われてしまうと、理屈や想いを通り越して、トラウマが俺を臆病にさせる。


 少なくとも冷静ではいられなかった。


「じゃ。あとで梓のクラスの劇、観に行くからね」


 そう言って踵を返す新垣に、一言すら言い返せなかったほど。


 しばらくその場に立ち尽くしていると、背後から誰かが来た。


「やっと見つけました」


 振り向くと、いや、振り向かずとも声だけでわかった。


 神楽坂だ。


 神楽坂が何か言っている。


 でも俺には聞き取れなかった。


 新垣の捨て台詞が脳裏にこびりついていて。ショックでぼーっとしていた。


「少しだけ一人にさせてくれ」


 多分、俺はそう言ったと思う。


 茫然自失としていて、自分でもよくわかっていない。


 そのまま神楽坂に背を向けようとしたときだった。


 後ろから神楽坂の両手が俺の頬を勢いよく挟んできた。


「うむっ!?」


 一気に意識が覚めた。


 そして神楽坂の言葉が明瞭に耳朶を打った。


「私についてきてください。梓くんと行きたい場所があります」


「……わかった」


 言われるがまま、俺は神楽坂の後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る