第77話 梓伊月は走りたい
「お願いだ!俺たちを特訓してくれ!」
俺が深々と頭を下げた相手は――
暗根だ。
放課後の人気のない校舎の陰。
俺の背後にはリレーに選ばれたDランクの
「梓、この子2組の暗根さんだろ?神楽坂さんのメイドで有名な」
「ああ、そうだな」
「信用できるのか?Aランクだろ?」
江地の問いかけに頷く他の二人。
まあ無理もない。
彼らも俺と同じくDランクという理由だけで虐げられてきたのだ。
高ランクに警戒心を持つのは不思議なことではないだろう。
――だからこそだ。
DだろうがCだろうが結果を残すときは残す。同時に彼らには高ランクでも良い奴はいるということをわかってほしい。
そう思い、俺は力強く言う。
「暗根は大丈夫だ。俺が保証する」
「……でもなぁ」
Cランクの松尾が迷った末に視線を落とした。彼もまた高ランクをよく思っていないのだろう。
「梓様、そもそもどうして私があなたたちの特訓を手伝う前提で話が進んでいるのですか?」
暗根がため息交じりに言った。
「え!?お前ならオッケーしてくれると踏んでたんだが……」
「あのですね、私だって暇ではないんです。メイドの仕事はむしろ学外の方が忙しいんですから、あなたたちの、いえ梓様に割く時間はありません」
「そこをなんとか……」
俺は両手を合わせて懇願する。
「もうDランクだからと泣き寝入りするのは止めたいんだ!俺たちだって楽しく生きる権利くらいあると――ふんぞり返って見下してる奴らに主張したいんだ!頼む!」
――生まれた静寂。
いつもなら眠たそうな暗根の瞳も、今は朝日のような光が宿っている。
彼女も思うところがあったのだろう。
十分な時間を費やして逡巡したあと、口を開いた。
「変わりたい――と、梓様たちはそう決心したのですね」
「……ああ」
たち――というのは神楽坂の心情もくみ取っているからだろう。
暗根は遠い目をしながら続けた。
「おかしいですね。今までは早く一歩を踏み出せと内心ぼやいていましたのに」
「ぼやいてたのかよ」
「ええ、それはもう呪詛のように」
「怖いカミングアウトやめよ?」
「ですが――」
暗根は自嘲のニュアンスを含ませて、失笑した。
「いざ変わろうなんて意志を見せられたら、なんだか遠くへ行ってしまう気がして……。いえ、それよりも私が怖いのは――小夜様が傷ついてしまうではないかということ……です」
最後の方は言葉に覇気がなく、暗根が本気で心配していることがわかる。
「俺は嘘とか誤魔化しとかできないから正直に言う。――傷つくだろうな」
「そうですよね……」
「でもな――何度傷ついても俺らは支え合うって決めたんだ。傷がついたなら磨けばいい。そうやって立ち向かって、変わっていくって……だから――お願いだ、いや、お願いします……」
「梓様……」
俺は頭を下げているからわからないが、暗根や江地たちは神妙な顔つきになっていることだろう。
いや、江地たちは事情を知らないからドン引いているかもしれない。
二重の意味で不安だった俺は、恐る恐る顔を上げた。
――ペチンッ!
「いってぇ!何やってんだよ!?」
「デコピンです」
「いや、それはわかってるけど……」
まあまあな威力で放たれた暗根のデコピンは、俺の額をうっすら赤くするには十分だった。
「梓様が悪いんです。そんなに一生懸命になって……真剣過ぎて引きました」
「ぐっ!や、やっぱりか……」
「ですから……ちょっと、ほんとにちょっとですけど、羨ましくなったんです」
「羨ましい?」
「と、とにかく!腹いせに一発デコピンかましただけです!もう一回やらせてください!!」
「なんでだよ!?」
俺の激しい抵抗も空しく、結局もう一発デコピンされてしまった。
やっぱこのメイド運動神経いいわ。
そんなアホみたいなやりとりを目の当たりにしていた江地たちがおずおずと言葉を投げた。
「二人って仲良かったんだな」
「仲良いって言うか……」
「私は梓様の監督者みたいなものです」
「おい、その言い方は不服……とはいえ反論はできねえ」
今も特訓してくれと頼み込んでるし、前には神楽坂のプレゼント選びも手伝ってもらったしな。
難儀な関係だな。
というか、こんな悠長に構えている場合じゃないだろ。暗根は特訓を引き受けてくれそうだけど、江地たちの説得がまだだった。
暗根のことを信用させないと。
俺が江地たちの方へ向き直って、暗根が信用に当たる人物だと言おうとした瞬間、暗根に手で制された。
「みなさんが私に信用を預けられないのは当然だと思います。Aランクですし、なによりほぼ初対面ですものね」
「あ、ああ。俺らは暗根さんのことをよく知らない」
「ならこれを見てくれたら少しは印象も変わるのではないでしょうか?」
そう言って暗根はスマホを操作し、ツイッターのアカウントを開いた。
「これ!?『暗闇姉』のアカウント!え?『暗闇姉』って暗根さんだったの!?」
江地たちが食い入るように暗根のスマホを覗き込んだ。
彼ら3人もサブカルチャーに通じているオタクだと風見から聞いたことがあった。だから『暗闇姉』に反応を示したのだろう。
かくいう俺も多少驚いていた。
『暗闇姉』って風見からちょくちょく話に出てたけど、正体は暗根だったのか。
「私の正体を明かしたうえで弁明させていただきます。私はランクで人を差別しません。あなたたちがリレーで勝ちたいと本気で考え私に教えを乞うというのであれば、全力で援助させていただきます」
互いに悩ましく顔を見合わせる江地たち。
そしてアイコンタクトで考えの一致を確認できたのか、代表して江地が言った。
「暗根さんが『暗闇姉』だったってわかって少し親近感が湧いたのは事実だ。でもそれだけじゃ足りない。なんせ俺たち低ランクはずっといじめられている。暴力や悪口は日常茶飯事。Aランクはゲーム持ち込みオッケーなのにDランクは禁止みたいにいろんな制限も設けられている。そんな環境に置かれた俺らが即答で暗根さんを信じろと言うのはちょっと難しいよ……」
「……そうですか」
「でも!」
江地は野暮ったい眼鏡をクイッと上げ、続けた。
「さっきの梓との絡みを見てれば、少しは希望はあるのかなとも思った。だから特訓していく中で暗根さんが信用に値するかを見極めていきたい」
「江地……」と零したのは俺。
「それに、高ランクの奴らを見返してやりたいと思ってるのは俺らだって同じさ。今まで機会がなかったから、いや、生み出せなかったから足踏みしていたが――」
江地たちが俺の方へ視線を送る。
「梓がせっかく作ってくれたチャンスだ。みすみす逃してちゃそれこそ言い訳できないDランクだろ。なあ?」
頷き合う伊能や松尾。
良かった。
高ランクに一矢報いたいと思案していたのが俺だけじゃなかったらしい。
ほぅと短く息を吐き安堵していると、江地たちはニヤニヤしながら何かを囁き合っていた。
「どうした?」
「とまあ、色々言ったけど一番はやっぱ梓を応援したいってところで意見が一致したな」
「うん?なんのことだ?」
「とぼけちゃってこの野郎」と肩を叩いてくる。
「ああ、そういうこと……」と何かを察した暗根。
「おいおい、なんだよ。俺にもわかるように説明しろよ」
「いやぁ。オタク的には熱い展開だと思うぞ。――好きな女の子のために頑張るって」
「……………………ああぁ!!」
俺は誤魔化す余裕もなく、赤くなった顔をできるだけ江地たちに見せないよう努めるしかなかった。
そうか!さっきの俺と暗根の会話を聞いて理解したんだな。
俺の魂胆を全部。
「にしても神楽坂さんかぁ……ロマンあるなぁ」
「だな」
「話を聞く限り、仲は順調そうだしな」
「おい、お前ら勝手に推理するな」
「「「俺らは支え合う……らしいな」」」
「ぎゃあああああああ!」
「あの……和やかな雰囲気に水を差すようで申し訳ないんですけど、やるからには徹底的にしごきますからね。過酷だからって逃げ出さないように」
「過酷ってどのくらい?」と訊いたのは伊能。
「……コミュ障童貞が丸腰で合コンに放り込まれるくらい?」
「「「「ぎゃあああああああ!」」」」
阿鼻叫喚した俺たちがいる校舎と校舎の間の空間に、夏の残り香と吹奏楽の音色を含んだ風が吹き抜ける。
こうして俺たちはひそかにリレーの特訓グループを誕生させたのだった。
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