6/6 「ゾウ 転生編-5」

 萌木さんを好きになった経緯いきさつに、特段の面白みはない。教室で静かに座って本を読む彼女が不思議と気になって、注いでいた視線がいつの間にか恋心になっていた、それだけだ。けれど例によって僕はヘタレなので、自分から話しにいったことなど一度も無い。


 そんな彼女が、今僕と触れられる程の距離にいた。


(どどどど、どうしよう……!?)


 動揺して足が動かせなくなった僕の顔を、不思議そうに見る萌木さん。

 メイクした上にマスクも付けているとはいえ、この至近距離では勘付かれる可能性はないとは言い切れない。

 いや待て……そもそも、萌木さんは僕というクラスメイトを認識しているのだろうか? というか、これでバレるなら萌木さんは僕のことを見ていることになるのでは???


『少年、思考が錯乱し始めているぞ』


 ゾウの言葉に意識が戻ってくる。いかんいかん、パニックで変な方向に走り始めていた。


「あの、どうかいたしましたか?」

「はひぇ!?」


 うわずった声が、幸運にも男らしさを消す。

 駄目だ、これ以上は僕のメンタルが持たない!


「だ、大丈夫、です!」


 そう言い残し、僕は萌木さんに背を向けて逃げ出した。


「えぇ!? あの、ちょっと――」


 突然の逃亡に驚く彼女だったが、背に腹は代えられない。そのまま僕は、萌木さんの視界から外れるまで全力疾走した。




「はぁ……こんな格好女装じゃなきゃ、もっと話してみたかったのに……」


 走り疲れた足を放り出して、僕は屋外のベンチで空を見上げていた。

 しょうがないのは分かってる。出会ってしまった時点で、どんな選択をしようが後悔するのは明らかだ。でも、プライベートで初めて会うイベントがよりによって女装した日というのは……。


「あああああぁ……」


 どんなに嘆いても嘆き足りそうになかった。


『ここまでの様子から察するに、少年は彼女が好きなのかい?』


 やつが左曲がりに首をかしげる。


「じゃなかったらこんな反応しないよ……」

『おや、隠したりはしないんだね』

「俺が隠蔽したいのはお前の存在だけだよ」

『はっはっはっ、言うじゃないか。皮でも被せとく? ってそれ包茎やないかーい!』


 こいつが俺の急所じゃなかったら、鈍器でぐちゃぐちゃに潰していること間違い無しだった。


『さて、個人の欲求としてはもう少しこのままでいてほしいけど、少年的にはもうこの格好で彼女には会いたくないだろう? 手早く着替えるところを探そう』

「そうだな、それは確かだ……」


 重い身体をどうにか立たせて、僕は周辺の男子トイレを探す。

 しかし、最初に着替える時とは違う難儀さがあることに僕はそこで初めて気が付いた。最初に女装をする時は、特段入る時の周りの目を気にしなくて済む。ただ女装から普通の格好に戻る際には、女装した状態で男子トイレに入らなくてはいけないのだ。

 休日のショッピングモールは、それなりに人が行き交っている。そんな中で人目を避けて男子トイレに入ろうというのは、中々に至難の業であることを僕は知らなかった。


(いや、よく考えれば最初も出てくる時にもっと気をつけなきゃだったけど……)


 さらにはこの人入りだ。もし女装したまま男子トイレに入って個室が埋まっていたら、男子トイレに入って出ていくだけの不審者になってしまう。


『少年。ここはショッピングモールで着替えるのは諦めて、どこかもっと人気の無い場所を探すのが無難なのではないか?』


 状況を鑑みると、ゾウの提言はもっともだった。よっぽどのことがなきゃ萌木さんと再び遭遇することはないだろうし、その方が無難だろう。

 よって、僕は女装したままショッピングモールから出ることにした。


 自分のモノローグが、フラグになるとも思わずに。




「ねぇねぇ君ぃ、今暇ぁ?」


 人目を避けるため入った細めの路地で、曲がり道の先からそんな声が聞こえてきた。

 絵に描いたようなナンパのフレーズだなぁと思いながら、僕は引き返すかどうか勘案する。今は何より面倒ごとに絡みたくないし、道を引き返したほうがいいかもしれない。

 そう思って進路を一八〇度転換してもとの通りに戻ろうとした僕の耳に、別の人間の声が聞こえてきた。


「いえその、用事は、ありませんが……」


 聞き覚えのある声に、僕の足が止まる。

 今の声は、もしや――?

 再び翻って路地を進むと、道の先で一人の少女が三人の男に絡まれていた。


 男達は、遊び好きというのがパッケージの見本にしたいほど分かりやすいやつらだった。金やら赤やらに染めた髪をワックスでがちがちに固め、派手な柄のシャツやじゃらついた金属のアクセサリーを身につけている。僕的関わりたくなさはマックスだ。


 そんな男どもに絡まれて困惑した様子を見せている少女は、不幸にも僕のよく知っている顔だった。

 ――それこそ、学校で毎日視線で追ってしまうくらいには。


(萌木さん!)


 それは萌木さんだった。

 しかし駆け寄ろうとしたところで、僕は自分の格好を思い出す。そうだ、僕はさっき逃げ出したときと同じ服装のままじゃないか。


 アスファルトと靴底を、葛藤がびっちりくっつけて離さない。

 ……いや、それだけでは嘘になるだろう。単純に、複数人相手に割って入るのが怖かった。


 ああ、僕はやっぱりヘタレだ。

 女装して外を歩いて、自分も少し変われたんじゃないかと思っていた。

 でも、そんな簡単な話じゃなかった。僕は僕のままで、どこまでも女々しいだけの駄目な男のままなんだ。

 悔しかった。

 でもどうしても、足は動いてくれなかった。



『――とあるエロ漫画家の言葉に、こういうものがある』



 マスクの下で歯噛みする僕の頭に、声が響いた。



『女装は男だけができる行為で、女には決してできない。それはつまり――』



“女装こそが、この世で最も男らしい行為ということだ”



 それはまるで、弾丸が硝子ガラスを撃ち抜いたように。

 僕の心を覆っていた色んなものが、バラバラに音を立てて崩れ去っていく。


 世界が今一度、開闢の時を迎える。

 光が生まれ、海が、大地が、天空が産声をあげる。


『ゆけ、少年。お前のますらをぶりをとくと見せつけてやるのだ』


 もう僕の靴底と、躊躇いを繋ぐものは存在しない。

 男の中の一人が萌木さんの腕を掴むのと僕が駆けだしたのは、ほぼ同時だった――。




  *  *  *




「いたたたたた!!」


 水道水で洗い流すと、腫れた目元がひどく染みる。その他にも全身に幾多の打撲があるが、これはまぁどうしようもなかった。


 さて、結論から言ってしまおう。僕はこっぴどくボコられた。


 中学の荒れてた頃に喧嘩はひとしきりやったので、心のどこかではまぁいけるんじゃないかなと思っていたんだけど。まぁそんなことなかったね。三対一は普通に一方的に殴る蹴るされて終わりだよそりゃ。


「あの、大丈夫でしょうか?」


 視界の端からか細い腕が伸び、ハンカチが差し出される。


「うん、ありがと……濡らしてもいいかな?」

「ええ」


 萌木さんから差し出されたそれを、僕は濡らして腫れた目元にあてがった。



 最初、僕は普通に言葉で止めに入った。そしたら男は、僕のことを素直に女だと思ったらしくこっちにまでナンパをしてきた。その節操のなさに鳥肌が立ち、うっかり平手を食らわせてしまった次第である。あとはそのまま。途中でウィッグが外れ男だとバレてからは殴打の威力が二割増しになって、とても痛かった。


 興の冷めた男たちがそのままどこかへ行き、路地に残されたのはマスクとウィッグが外れ全身ボロボロの僕と、何が起こったのか分からず立ったままの萌木さんだけだった。やがて状況に追いついた萌木さんが僕に「だっ、大丈夫ですかっ!?」と駆け寄ってきたのを見て、僕はその不甲斐なさとどこかやりきった気持ちに、滅茶苦茶大声で笑ってしまったのだった。萌木さんには気味悪そうに見られたけど、僕が笑いたくてしょうがなかったのだからしょうがない。


 それから応急処置をするため、萌木さんに肩を借りながら偶然近くにあった公園の水道で傷を洗い流しているのが現状である。


「萌木さんは大丈夫? ケガとかしてない?」

「ええ、私は何も……そこのベンチには座れますか」

「うん、そのくらいなら大丈夫だよ」


 足を引きずって歩き、僕はベンチの背にもたれかかる。

 その隣には萌木さん。これは中々にドキドキする展開だ。


 まぁ、僕の格好は散々なんだけど。


「あーあ、買ったばかりなのに服汚れちゃった」


 地面に倒れたことで、シャツやスカートには汚れが付いている。ウィッグもあんなにゆるくかわいらしかったのに、今はくしゃくしゃで何がなんだかだった。さらにはメイクも傷を洗い流すうちにほとんど落ちてしまったので、半ば落ち武者のような様相だろう。

 でも不思議と、僕に恥ずかしさはなかった。


「ごめんなさい、私なんかを助けなければ杉山さんは……」


 そうそう、朗報として萌木さんは僕――クラスメイトの杉山リオという男――のことをちゃんと認識してくれていたようだった。彼女のルームメイトである遠藤さんと同じ保健委員だからという理由でらしいけど、僕はとても嬉しかった。


「萌木さんは気にすることないよ。僕が勝手に突っ込んで、勝手にボコボコにされただけなんだから」

『まったく、修行が足りないなぁ少年は』

「うるせぇ、無傷のお前が言うな」


 いや、こいつがダメージ食らうと僕にも致命傷なのでいいことなんだけど。でもこいつがピンピンとビンビンしていることに腹を立てるなという方が無茶な話だ。

 自分の股間に話し掛けた僕に、萌木さんがきょとんとした顔になる。


「ああいや違うんだ萌木さんは関係なくて! 極めて個人的なのだから!」

「そう、ですか?」

「そうなの!」


 自分の股間のゾウと話していたと言って、一体何人が信じてくれるのだろうか。

 それから少し、二人の間に沈黙が流れる。

 そこにはやっぱり緊張とか気まずさがあったけど、それよりもやりきって曝け出すものを曝け出した開放感の方が強くて、僕は彼女との五十センチの距離に幸福を噛みしめることにしていた。


「その、杉山さん」


 その沈黙を先に破ったのは萌木さんだった。


「なに?」

「その、もし嫌でなければなんですけど、お礼をさせていただけないでしょうか」

「お礼」

「はい。このまま恩を受けたままでは申し訳が立たない気がして……だめ、でしょうか」


 そう言って僕を見つめる彼女の瞳だけで僕には十分のご褒美だったけれど、そんなこと言ったら気持ち悪いにもほどがある。なんかもっと、かたちのあるものを要求したほうがいいのかもしれない。


「そうだなぁ……じゃあまず、今日のことは秘密にしてくれないかな。特に僕のこの格好とか」

「格好……杉山さんが、女性の服を着て歩いていたということですか?」

「まぁ、そうだね」


 好きな子に実際に言葉にされると、思ったよりグサッとくる。


「……一応聞きたいんだけど、萌木さんはどう思う?」

「どう思う、と言いますと?」

「僕の格好。男が女装して街歩いてるのって、やっぱり気持ち悪い?」

「そうですね……」


 萌木さんは僕の全身を眺めた後、その視線を空に向けた。まだ日の高い青空には、散り散りの雲が浮かんでいる。『あ、あそこの雲エネマ○ラみたいだね少年』などというノイズも聞こえた気がするが、それは完全にスルーした。


「私がどう思う、というのは今はまだ。でも、私が目を通した漫画雑誌に、こういう台詞がありましたの」


“女装ってのは、最も男らしい行為なんだよぉ!”


 その言葉が彼女の口から出てきて、僕の脳は完全に凍結する。そしてすぐさま彼女の笑顔に解凍されらものだから、脳組織が幾らか死んだのではないかと錯覚した。


「だからきっと――いいえ、杉山さんは気持ち悪くありません。人の本質は性的嗜好に在るという言葉通り、女装をした杉山さんも、さっき助けてくださった杉山さんも、とても男らしいのだと私は思います。少なくとも、否定されるようなものでは決してありません」

「……つまり、肯定してくれるってこと?」

「ええ、肯定します」


 後にも先にも、今この瞬間こそが、僕の人生で一番の救いの瞬間だったと言い切って間違いなかった。自分の好きな子が、自分の女装という欲求を肯定してくれたのだから。

 目頭に熱いものを感じる。目から溢れてくるそれはどうにも止めようがなくて、それが傷口に染みこんでくるものだから痛くて痛くて仕方が無かった。


 公園で泣きじゃくる僕を、萌木さんは聖母のように見守ってくれていた。やっぱりまだ、僕の女々しさがなくなったわけじゃないらしい。

 まぁ、構わないか。女々しさも男のものなんだから。


「……来週の週末、予定あったりする?」


 ひとしきり泣いて落ち着いた後、僕は萌木さんに尋ねた。


「来週ですか? 今のところは、特に何もないはずですが」

「じゃあさ、買い物に付き合ってくれないかな。男一人だとどうしても入りづらい店とかあるから、一緒に来てくれる女の子がいると助かるんだ」

「それは、私でいいんですか?」

「もちろん。むしろ萌木さんだけが僕の女装ひみつを知ってるんだから、一番の適任だよ」


 そうでなくても萌木さんがいい――という言葉は飲み込んで。


「……分かりました。お付き合いしましょう」

「やった!」


 かくして僕は、片思いを寄せる少女とのショッピングの約束を取り付けた。不幸中の幸いという言葉は、もしかしてこのために生まれたのかもしれない。


 僕が公園の公衆トイレで男の格好に戻ってから、僕たちは並んで、僕たちの街へと帰るために駅へと歩く。


『……さて、そろそろかな』


 駅も見えてきたというところで、ゾウはエネマ○ラ以降閉ざしていた口を開いた。隣に萌木さんが歩いているので、僕は心の中で反応する。


(そろそろって?)

『僕の役目が、そろそろ終わりかなということだよ』


 彼の言葉の、その真意を僕は掴みかねた。

 それが分かったのか、彼はそのまま言葉を続ける。


『君が彼女に肯定された時、僕は思い出したんだよ。ち○こに生まれ変わったのは、何も君のイチモツが初めてじゃないってことにね』

(どういうことだよ?)

『僕は死後、世の中に埋もれる男の娘の原石のお手伝いをする妖精として生まれ変わっていたんだ。女物の下着を穿くことをトリガーとしてその性器に取り憑き、僕以外にその子を肯定してくれる誰かに出会うまで、唯一の肯定者として存在するためのね。僕はそうやって、この五百年間何千人もの男の娘を世に出してあげていたんだ。どうやら今回は、不手際で僕の記憶が飛んでいたようだけど』


 まったく理解の出来ない情報に言葉を吐き出せずにいる僕をお構いなしに、ゾウはさらに続ける。


『君は今日、その少女に自身の女装を肯定された。君はもう、一人じゃなくなったんだ。だから、僕の役目はお終いなのさ』

(……つまり、いなくなるってことか?)

『あぁ、寂しくなるかもしれないけど』


「……ふふっ」


 つい漏れてしまった笑い声に、萌木さんに不思議そうに見つめられる。「ああいや、なんでも」とごまかして、僕はゾウに返した。


(ごめん、わりと本気で嬉しい)

『えっ傷付くなぁその反応。……まぁ、男同士の別れだしね。しみったれてるよりはマシか。じゃ、僕も遠慮無くおさらばするよ』

(もう行くのか?)

『君が、それをお望みのようだからね』


 彼が現れてから股間のあたりに感じていた、何かスピリチュアルな感覚が薄まっていく。『あぁ、最後に言い忘れてた』と、遠ざかりつつある声に合わせ、ぼんやりとした、一頭のゾウの幻影が僕の視界に現れた。


『パットで胸を作るにしても、盛りすぎは宗教的にNGだからそこんとこよろしく』


 それが、彼の最後の言葉だった。ゾウらしいパオーンという嘶きと共に、幻影は昇り、空に溶けていく。きっとまた、次の男の娘を生み出すために旅に出たのだった。


「杉山さん?」


 立ち止まり空を見上げた僕を不審に思った萌木さんが尋ねてくる。「あぁごめん、もう終わったよ」と言って、僕は痛む身体を押して萌木さんの横に駆け寄る。


 僕とゾウとの物語は、短いながら終わりを告げた。


(でも)


 隣の萌木さんに笑いかける。目の腫れた僕が笑っているのを見て、萌木さんも少しだけ表情を崩す。



 これからがきっと、僕の本当の人生の始まりに違いなかった。

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