こころ

第1話

 本当は小説家の先生になりたかった。小説家の先生ならどこに行ってもなにを言っても先生と呼ばれる。仕事をしてえいても富士そばで昼食とっても気がついてもらえれば先生と呼ばれる。家にいてもフロに入ってもトイレにひとりでいようとも先生だ。そういう先生になりたかった。

「せんせ、なに読んでいるの」

 背中から体を覆い被さってきたのはうちのクラスの生徒だ。勉強のデキはよくない。

「よくないってハッキリ言っちゃうね」

「実際君は僕の補習ばっかり受けているじゃないか。君は難解な長文問題は解けるのに、なんで基本的な英単語が書けないんだ」

「そのためのせんせでしょ。勉強教える生徒がいなくなったらせんせは仕事がなくなっちゃうよ」

「生意気なことを言うな」

「生の息はほしいでしょ」

 と言っては僕の口の中に息を吹きかける。

「僕の言うのは生きることの意義だ」

「イキってんなよ、せんせ」

 そういうと決まって僕を腰砕けにしてくる。僕はなんでこんな勉強のできない小娘に翻弄されないといけないのか。

「だからアタシの勉強そっちのけでなに読んでいるの。アタシの勉強より大事なものでも書いてあるっていうの」

「君みたいな勉強のデキが悪い者には理解できない物だ」

「あーせんせ、アタシのことバカだと思っているでしょ」

「そんなことはない。僕がバカだと思うのは勉強ができない云々の話ではない。バカとはもっと愚かなことだ」

「そうだよ。せんせは勉強教えるのうまいもんね」

「だったらなんでいつも英語のテストの点数だけがこんなに悪いんだ。他の教科の成績は悪くないっていうのに。おかげで僕は君に勉強を個別に教えるために残業をしているんだぞ」

「せんせ、なんでアタシが英語のテストだけ悪いか知ってる」

「ふん。高校の英語なんてものはな。要は記憶力なんだ。君はちょっと記憶力という能力が欠けているんじゃないか」

「いいもん。そんな能力なくたって。違う能力を活かしていけば生きていけるから」

「そうだな。僕ももっと夢が叶えられるような能力があってそれを活かせるようになりたかったよ」

「せんせはなにになりたかったの」

「夏目漱石だ」

「なにそれウケる」

「夏目漱石こそ偉大な小説家だ。僕は彼になりたかった」

「今はもう目指していないの」

「僕は彼に近づくためにこうして英語の教師になることができている。半ば夢は叶えられたようなものだ」

「せんせ、アタシ本当はせんせが夏目漱石に憧れていたの知っていたよ。せんせは理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見したアタシは、ただ一打ちでせんせを倒す事ができるだろうという点にばかり目をつけたよ。アタシは自分に滑稽だの羞恥だのを感じる余裕はないよ。

 アタシがなんでこうして英語の成績だけが悪くてこうして個別授業を受けているのか知ってる。それは決して記憶力が悪いわけじゃあ、ないんだよ」


 その生徒がソラで読んだ一文の小説、そしてその続き。

 本当のバカとは。

「せんせ、小説家になって先生と呼ばれるために必要な精神的向上心は」

「ぐっ」

 僕は、バカだった。

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こころ @tatsu55555

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