5-2
ねぇ、アンちゃん。アタシ、まだ貴女にしていない話があったでしょ。
アタシ、奥さんに……ユティスに、貴女のことを話した時の話よ。
アタシって駄目な旦那でね。軽い調子で言っちゃったのよ。
「アンちゃんみたいな子がうちの子供だったら毎日楽しいでしょうね」って。
そしたらユティス、悲しい顔をしたの。
「産んであげられなくて、ごめんね」って。
死ぬほど後悔したわ。
アタシは駄目な旦那だった。同時に、駄目な男だった。
だって、あの人がいなくなって、今でも、こんなに悲しい。
アタシの半身は無くなったままなの。そんな男、いつ死んでもおかしくないわね?
だから、アンちゃん。
アルギン。
アタシが奥さん恋しさに先に逝っても。
貴女はアタシの事を思い出して笑ってくんなきゃ嫌よ。
貴女がアタシに言ったみたいに。
敵軍掃討中のアルギンの後方から、まるで大地が震えたような轟音が聞こえた。
追撃を仕掛けているのは『鳥』隊の者だ。後方支援を担当する『花』は前線より離れた場所で後処理や支援を行っていた。遠距離からの弓などによる攻撃も、掃討作戦に一役買っていた。
副隊長であるアルギンも、戦よりは後方支援が得意だが戦えない訳では無かった。体の中に流れる半分の血がそうさせているのか、書類仕事をこなすのと同程度には弓が引ける。
「た、」
そうして弓を引き絞ったアルギンの体が、揺れた。
馬に乗っていても分かる地響き。馬が不安そうに嘶いて、アルギンは咄嗟に後方に振り返る。
「隊長!!?」
反射的に、その人を呼んだ。
アルギンの後方、ほんの数十歩離れただけの場所だ。そこにいたはずだった。―――代わりに、標準的な男性ヒューマンの背丈ほどの大岩が転がり落ちてきていた。
血の気が引いた。掃討に気を取られていて、気付けばそこは絶壁とも言える崖の下だった。見上げれば、崖上は遥か上。そこから、大小様々な石や岩が落とされていた。
「総員!!」
アルギンが呼んだその人は、返答をしなかった。
「退避!!!」
それで反射的に、アルギンは叫んでいた。
アルギンの声を聞き取れたものは皆、散り散りに逃げていく。この時ばかりの統率など、ある訳がない。どこまで逃げろ、なんて分かる訳もないのにそこまで指示は出せない。各自、自分の身の安全が確保できるところまで。
アルギン目掛けて岩が転がり落ちてきた。既に予見できていたそれを、馬に指示を出して躱す。既に側には一人の兵もいない。徐々に落ちてくる岩が減ってきて、その頃合いにアルギンは大岩の側に寄った。
「隊長!!」
何があったか、なんて、考える間もなかった。ただ、感覚的に『隊長はこの下だ』と思ってしまった。その間も、個数は減ったが石は落ちてくる。拳大程度の石でも、頭に当たれば大惨事だ。
既にそこにはアルギンしかいない。馬から降りて、その腰を叩いて逃がす。誰かに見つかって保護されるならよし、そうでなくても、ここで投石による死亡の可能性から逃げられればいい。
アルギンが大岩に手を掛けた。―――そして視線は、大岩の下に向けられる。
血だまりだった。
血だまりと共に、見覚えのある骨ばった手が大岩の下から延びている。何度もアルギンを支えてくれた手だ。けれど、この手が血に塗れた光景は見たことがない。アルギンは、それが誰の手か分かっていたのに気づかない振りをしていた。その手の持ち主を呼んだというのに。
明るくて、お気楽で、けれど大人の男としての心の余裕を持っていて。
最愛の人の事を話すときはとても楽しそうで。
アルギンに滅法甘くて。
「たい、ちょぉ!!」
大岩を押した。アルギンの背丈よりも大きいそれが簡単に動く筈もなく、アルギンが込めた力だけでは無駄に終わる。こんな岩を持ち上げるなんて、もとより出来ない話。
「たい、ちょう!! 隊長!! 隊長!!!」
半狂乱になりながら、アルギンが岩を押す。何度呼んでも、側にいれば軽い調子で返事を返してくれた彼の声が聞こえない。
「ネリッタ隊長!!!」
返事は無い。
それでもアルギンは岩を押し、呼び続ける。全身を使って、体重を掛けるように押しやろうとする。
突然、アルギンが頭に衝撃を感じた。視界が揺れる。
「っ……!?」
痛みを感じたのは、衝撃を受けた箇所が疼き始めてから。生温い何かが額から流れ落ちる感覚と、独特の臭い。視界が薄桃色の靄がかかったように歪む。
石が落ちてきたのだ。直撃ではなく掠めただけのようだが、額がそれで切れたらしい。憎々しげに崖の上を見る。投げてきた連中の姿は見えない。
「―――貴様ら」
向こうは、石を落としさえすればいい。こちら側からの反撃は実質不可能だ。
アルセン側の足止めさえ出来ればいいのだ。誰かを狙っての投石など、向こうも考えてはいないだろう。―――だから、アルギンは許せなかった。
無作為の投石に、『花』隊は惨状だった。アルセン側優勢の掃討任務の筈だった。それなのに、討たれたのは誰だ?
「ふ……ざけるな………」
深追いは厳禁じゃないかしらぁ
ネリッタの声が記憶に蘇る。
手負いの獣に手を出すのは危険よ
その言葉が正しかったのだと、今になって後悔する。
意見を出しにくい、と言ったあの時の自分を殴りつけたかった。自分の意見はネリッタ側だったのだ。あの時、隊長に合わせて意見を出していれば、こんな事にはならなかったのではないか。
違う。
違う、と。アルギンの冷静な心の部分がそれをすぐ否定した。
分かっていた。
これは、油断が招いた結果だ、と。
それに気づいた瞬間、アルギンはその場で膝をついていた。
まだ投石が終わらない。地面を削る落石の音が続いていた。動かない大岩に寄り添って、その音を聞いている。
薄桃色に色づいたままの視界では、絶望的な状況を打開する策を考えることも出来ない。考えたところで、どう動いたところで、空に手は届かない。
大岩に石が当たる音がする。破片が頭に落ちてきた。大岩が盾となっているのか、石は直撃することはなかった。
アルギンは動けなくなった。大岩に体を預けて、その下から延びている手に触れた。まだ、温かい。
そうしてどれくらい経っただろうか。
今度は上から落ちてきたのは岩ではなく人だった。
先行していた『鳥』が、上で戦闘を開始したらしい。
落ちてきた者は、敵である帝国兵のほうが多いようだ。
その頃にはもう、アルギンが触れていた手は冷たくなっていて。
多少の難はあったが、掃討作戦は終了した。後片付けに奔走する他隊の姿を横目で見ながらも、アルギンは同じ体勢のまま、大岩に寄り添っていた。まるで、親の死体から離れない動物のように。涙を流すでもなく、ただ、静かに。
伝令からの報告を受け、次々に他の隊の隊長が集まる。その中でも、掃討作戦を強行したカリオンの顔からは血の気が引いていた。アルギンもその顔を一瞥こそすれ、何か言うでも無しに再び冷たい手に触れる。
サジナイルは、同期の隊長の訃報を信じられないようだった。あの破天荒なネリッタが、簡単に死ぬなんて思っていない、今でも生を信じている顔。
最後に姿を現した『月』隊長は、ただ、無言でアルギンを見ていた。
「ねぇ」
かつては、副隊長として同僚だった『月』隊長。もう既に、敬語なんて使っている心の余裕なんて無い。
「この岩、どかして」
そんな彼に、細い声で懇願する。フュンフが大声だと嫌な顔をした声が、今はこんなに小さい。
聞き届けた彼が剣を抜いた。小声で短く何かを呟くと、柄に嵌められている宝石が眩く光る。
一閃。光は線を何本も描き、その形に大岩が破壊されていく。小さな破片になるそれらは、自重で崩れ落ちていった。
「ありがと」
アルギンはそれらを掴んで、横へ置く。確かに、何人もこの場に呼んで岩をどかしていくより安全だ。小さな破片はアルギンでも取り払える。『月』隊長もそれを手伝い始め、それから、他の面々も。
徐々に姿が見えていく。ネリッタの着ていた鎧。ネリッタの愛用していた武器であるトンファー。短い髪の毛、それから、それから。
サジナイルが声を漏らした。
「……たいちょぉ」
弱々しく聞こえたのはアルギンの声だ。
見えてしまった。その死の形が。
彼は大岩に押しつぶされ、無残な死骸となって出てきた。ああ、この姿をもし彼が見ていたら、何というだろう。「いやん、見ないで」なんて、いつもの調子で言ってくれないだろうか。
飛び出している脳漿、ありえない方向に曲がった腕、潰れて誰か判別できない顔。
これが誰か分からないままだったら良かったのに。
「かえり、ましょぉ」
喉が詰まって声が震えた。返事は、やっぱり聞こえない。肩だったらしき場所に手を添える。潰れてしまった体でも、アルギンが担げるような重さはしていない。
「い、医療部隊の担架を」
「……今一番忙しい医療部隊を駆り出すってのか」
カリオンが言った言葉に、アルギンが言葉を重ねる。その声はやはり不安定で、けれど言葉には棘が含まれているのが分かる。カリオンがその圧に言葉を失い、アルギンは再び持ち上げようと努力する。
ああ、このままでは、こぼれてしまう。
隊長だったものが、こぼれてしまう。
アルギンが持ち上げようとして固まる。一人ではどうしようもなかった。
「……担架だけ、持ってくればいいのであろ」
アルギンの耳に、その声が届く。
「カリオン、貴様はアルギンを見ておけ。異変を感じたら止めろ」
「え……は、……はい」
「サジナイル、撤収を早めろ」
「分かってる、命令するな」
その声が誰のものか分かっている筈なのに、アルギンはもう何も考えられなくなっていた。
夕闇が近づく。
翳りに飲み込まれていくネリッタの遺体が、目を離したら影に連れていかれてしまうような気がした。
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