第155話
その日の昼前は静かな時間だった。
時折赤ん坊が泣く以外は特に変わった事は無く、それぞれが自分の疲労回復の為に努めた。あるものはとっておきの茶葉で茶を淹れ、あるものは昼前と言うのに入浴をした。二度寝からなかなか起きない者もいて、まるで戦場に向かう前の準備のような心持ちで各々が自分の時間を過ごしていた頃。
それは突然起こる。
何だ、とアルギンが窓の外に顔を向けた。
外が騒がしい。昨日は葬列で外出禁止だったからはしゃいだ市民がいるのかと思っていた。
「アルギン……。何?」
ここはアルギンの私室。ベッドに座っていた王女アールリトは不安そうな顔でアルギンを見た。
カーテンを開いて通りを見てみるが、何もこれといって変わったところは無い。通りに人がいないのだ。
しかし何かしらの大声は聞こえてくる。何を言っているのか不鮮明で、そこで漸くアルギンはその声が通りから少し離れた場所から聞こえるものだと解った。それも、一人二人の声では無いだろう。
「何かあった?」
王女は不安そうな表情を隠さずアルギンに聞いてくる。しかし今の状態では答えを持っていなかった。
今日は外出禁止の命令は解かれている。外に出れない訳でも無いのだが、何故かアルギンに嫌な予感が走る。
「……何もありませんよ、見える範囲には」
「本当?」
「本当本当。……でも何か聞こえるのも本当ですね。様子を見に行ってみましょうか」
アルギンは特に何も考えずに言った言葉だった。けれど、それを言った途端に王女の顔色が変わる。ベッドから立ち上がって、アルギンの腕を掴んだ。
「行っちゃ駄目」
駄目、と言われてアルギンが戸惑った。行かなくて良いなら行きたくない。しかし、王女の様子がどこかおかしい。
「……ど、どうして、です?」
「嫌な予感がするの。だって、こんな声、聞いたことがない」
「こんな、って……」
そこで漸くアルギンが耳を澄ます。……聞こえてくるのは声だ。だれかがどこかで騒いでるような声。
しかしよくよく聞いてみると、それは怒声のようだった。怒声だと認識すると、アルギンの嫌な予感感知に拍車が掛かったように、冬だというのに背中の冷汗が止まらない。
こんな昼から何が始まった。アルギンのその疑問へ答えを齎すものが部屋の扉をノックする。
「アルギン」
声が掛かった。それはアルカネットのもので。
「開いている」
短く返答すると、乱暴に扉が開かれる。相変わらず機嫌の悪そうな顔だが、着ている服は黒の自警団用仕事着だ。腰には自警団員としての護身用の短剣が下がっている。
「少し仕事で出てくる。兵士と市民で乱闘騒ぎが始まったらしい」
「はぁ?」
「あいつら、城下から外に出られなくなってるからって城の奴等に掴みかかったらしい。向こうで混乱してるらしいから、自警団が招集されてる」
「てな訳で、アルカネットさん借りていきますよー」
アルカネットの後ろから現れたのはトーマスだ。相変わらず飄々とした口調でアルギンに断りを入れる。
アルカネットは言うだけ言うとすぐに部屋を出て行こうとする。その背中をアルギンがコートを手に取り急いで追って、扉を閉められる前に廊下に体を滑り込ませた。
「アルギン?」
自分達に付いて来たアルギンを振り返って、アルカネットは眉を顰める。王女を部屋に残したままだ。
アルギンの顔は嫌々だ。しかし、どうしても気になる事があったから付いてきた。
「城下から外に出られない、って、どういう事だ?」
「ああ……。どうやら、話を聞く限りでは門の所をなにやら植物が塞いでるって話だ」
「植物!?」
「少し前に、ミュゼが言ってただろう。『城下の外側全体に、ぐるりと植物が』と。あれが現実になった……といった所だ」
「ちょっと……、勘弁してくれよ……」
国葬の隙に、予言が現実に追いついて来た。それで騒動というのはミュゼの予言には無かったが。
二人の後について一階酒場ホールまで出て来た。そこにはアクエリアとスカイが外を気にするようにして窓際に立っていた。
「お、アクエリア。お前さんも気になったか?」
「ええ。こんな状況で騒がしいと眠れもしないんで。スカイは聞こえないらしくて寝ていましたが、俺が部屋を出ようとしたら付いてくると」
騒がしい、の言葉にアルギンは首を捻ったが、生粋のダークエルフの耳の良さはアルギンの比では無いのだろうと思って一人で納得した。
スカイはまだ眠そうな顔をしているが、そんな顔をしていてもアクエリアの服の裾を掴んでいる。目を擦りながら、自分達の近くに来た人物たちの事を見ていた。
「……あるかねっとさん……? いかれるんですか……?」
寝ぼけ半分、よく回らない口でスカイが尋ねる。そんなスカイに視線を合わせるよう屈んで、アルカネットが答えた。
「ああ。お前は危ないから出るんじゃないぞ」
「……ひゃい」
「いい子だ」
アルカネットも、随分スカイに慣れたようだ。スカイも怖がる様子を見せず、素直に頷いた。
そして自警団の二人が酒場を後にして扉が閉まると、アルギンの後ろから毛布を被った王女アールリトが出て来た。毛布の間から見える表情には、困惑の色。
「……アルギン」
その困惑はなにから来ているのだろうか。これまで怒声などとは縁遠い、潔癖な王城で育ったせいなのだろうか。王女の怯えを、アルギンはどうすることも出来なかった。
王女はアルギンに身を寄せ、顔を肩口に埋める。
「行っちゃ嫌」
「……すみません」
その怯えを、可愛らしいと思った。何も知らない昔の王女のままだった。あの頃は、共に過ごす時間が楽しくて、このままでいて欲しいと思っていた。
「すみません、アールリト様」
だから、この表情を曇らせる罪悪感に苦しめられて。
「アタシだって行きたくないけど、でも、行かなきゃいけない気がするんです」
「アルギン」
「大丈夫、危なくなったらすぐ帰ってきます。ちょっと見物に行くだけですよ」
嫌な予感が消えたわけではない。しかし、昨日一日出ないだけで何が変わったのか確認しておきたかった。それでなくとも、あの騎士達は酒場に来ない。来る余裕が無い、というのが正解か。
アルカネットの帰りを待てばいいのかも知れない。けれど、それで時間を無為に過ごすのは嫌だった。
もう、猶予はない。
「あ……、じゃ、じゃあ!! 王女様、僕とお話して待ってましょう!」
尚も渋る王女に声を掛けたのはスカイだった。それまでの眠気に耐えていた顔もどこへやら、屈託のない笑顔で王女の手を取った。
「え……お話?」
「はい! 僕、王妃様とお話をしたことがあるんです! 王妃様のお話とか、聞きたいなぁ」
無邪気なスカイに、アクエリアが心に痛みを覚えたような複雑な顔をする。その表情もすぐ消え、今度はアルギンに向き直った。
スカイはまるでエスコートするように、王女の手を引いて近場の椅子に座らせた。これも孤児院での教育の賜物なのだろうか。初めて顔を合わせた時より背も高く、声変わりも始まっているから中性的ではなくなっていて、立派な男の仲間入りをしているように見える。アルギンは二人の様子を見ていたが、何か言いたげで黙っているアクエリアの方に漸く視線を向ける気になった。
「……で、お前さんも行ってくれるの?」
「目は多い方がいいでしょう、何も問題なかったらその植物とやら、焼いて除去しましょう」
「全く、本当にお前さんは頼れる奴だよ」
それは本心には違いなかったが、スカイの気遣いがあっての事だと解っていた。スカイはスカイなりに、今の状況が解っているのだろう。だから、王女の話し相手を買って出た。
アルギンとアクエリアが扉に手を掛ける。外の寒い空気に体を震わせて、持ってきていたコートを羽織る。アクエリアはそこまで厚着をしていない割に寒そうにはしていなかった。これも精霊のナントヤラなのだろうか。
外に出ると騒がしい声がどちらから聞こえるか解った。二人顔を見合わせて、無言で頷き合ってからそちらへ向かう。
「しかし、エルフ族というのはこういう時損ですね」
「損?」
「スカイはこの煩いの、聞こえなかったそうですよ。俺には随分耳障りだったのに」
「ああ、……え?」
愚痴を零すアクエリアの言葉を適当に聞き流そうとして、出来なかった。アルギンだってそこそこ聞こえる程度の声だった。スカイは聞こえなくて、王女は怒声と解る程度には聞こえた。アクエリアにとっては煩いくらいに。
それや昨日のダーリャとした話から考えられる事柄から目を逸らすために顔を振った。今考えてたら集中できなくなる。
「ア、アルカネットってこっちに先に行ってんのかな」
「……? 詰め所に行かないんだったら、いるでしょうね」
話をわざと逸らして、やや早足で目的地に向かう。ひとまず目指すのは酒場目の前の道を抜けた大通りだ。そこの壁側終着点が、城下と外を繋ぐ門になっている。
しかしそこに辿り着く前に、二人は更なる声を耳にする。
「―――アルギン」
「ああ」
それは、人の叫び声だった。声は低く、男だと解る。
途端にアルギンの表情が青くなる。何が起こっているか、と考えれば、『よくないこと』と頭が即座に答えを弾き出す。
二人は駆け出した。足はアクエリアの方が数段早い。これで肉体労働は嫌だとぬかしているのだからアルギンは納得がいかなかった。これで恐らく魔法の行使はしていないのだから腹が立つ。
大通りまでは近い。そこまで走ったら、門のある方角から何人もの市民が走って逃げているのが見えた。
「え、な、何だ!?」
「解りません、……ですが、嫌な予感がしませんか」
「……だよなぁ、そうだよなぁ!」
捨て鉢に叫ぶが、嫌な予感ごときで足を止められては堪らない。
二人は今度は同じ速度で走り始めた。アクエリアがアルギンに合わせる形だ。やがて辿り着く、門の前。
そこにいたのは兵士が十人、騎士が一人、そしてアルカネットとトーマス。
「―――アルギン」
その声は騎士から放たれた。
手に持っているのは、血に濡れた長剣。
「―――アー……」
アルギンは硬直してしまった。血に濡れた剣を手にしている騎士は、顔見知りだったからだ。
騎士隊『風』現隊長、アールヴァリン。
そして血は、床に座り込んでいるアルカネットから流れていた。
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