case9 この国に住まう者達の未来の為に

第144話


 アールリト・R・アルセン。

 現王妃ミリアルテアの産んだ娘である。

 その髪は国王であるガレイスから受け継いだ濃紺、瞳は深い海の色。肌は白く、唇の朱は鮮やかに色付き、聡明で活発であると評判の末姫。

 国と王妃の思惑に翻弄された悲劇の姫である―――。

 アルギンは少なくとも、そう思っている。


 アルギンの目の前の王女アールリトは、それまで寝台代わりにしていた椅子から上体を起こすと、掛けられている毛布を自身に引き寄せながら不審げな瞳を逸らさなかった。誰、と言われたアルギンとダーリャは互いに目を合わせている。


「誰、って。お忘れですか。ダーリャですよ」

「王女、アタシですよ、アルギンです。短い間ですがお世話係を勤めさせて頂きました」

「……ダーリャ……? アルギン……?」


 その言葉に王女の表情が一瞬だけ和らいだ。しかし、それは一瞬だけ。次の瞬間には、再び二人が耳を疑うような発言をされる。


「……私の世話係はリュクラだけよ。それに……ダーリャ」

「はい」

「私の知っているダーリャは、貴方みたいなおじいさんじゃありません。おじさんだけど、もっと若いわ」


 その言葉にダーリャが固まった。王女の中にはダーリャの存在はあるらしい。しかし、アルギンの事には触れられなかった。

 リュクラ、というのはアルギンが記憶している限り、アルギンの先代の世話係であった侍女だ。自身の都合で世話係から外れたはず。次の侍女が見つかるまで、という話でアルギンが側仕えになっている。


「それに、なぁにこの場所……ひっ!?」


 王女が身を起こし、自分の掌を見た瞬間悲鳴を上げた。


「なに……、なに、この手!!」


 自分の手を見て驚いている。そのまま恐慌状態に陥りそうだった王女の手を握り、アルギンが瞳を見つめる。


「落ち着いて、王女」

「……や……、いや……!!」

「私の質問に答えてください。……王女。貴女は今、何歳ですか」


 王女がそんな悪趣味な冗談を言う人物ではないと二人とも知っていた。ダーリャの腕の中で、赤ん坊が一度目を開けて王女を見た。王女はそれに後押しされたように、二人を見てから深呼吸をする。それから、口を開いて。


「……私、……七歳」


 二人とも、何となくではあるがその返答を予感していた。

 三人は互いに顔を見合わせて固まった。




「外傷は、特に酷いものは見当たりません。左頭部に少しこぶがあるようですが、それ以外は掠り傷が見えるくらいですね。痣などもありませんし、外因性の可能性もありますが……もしかすると、心の防衛反応から来る記憶喪失かも知れません」

「心の防衛反応?」

「時折いると聞きます。あまりに耐えられない事態に陥った時、心が壊れてしまうのを防ぐために記憶を失う。……その人によって『耐えられない事態』は異なると思いますが、なんにせよ、自分で思い出せる時が来るまで待つしかないかと」


 ダーリャに頼んで赤ん坊と一緒に部屋に下がって貰い、すぐさま二階からユイルアルトとジャスミンを呼んだ。二人は疲れているにも関わらず、アルギンのお願いを聞いて王女の診察に入った。服を開けさせ、その肌を見ていく。折れている骨は無く、傷もさして酷くはない。夜の冬の川で発見されたにも関わらず、風邪なども引いていないようだ。

 心細そうにしている王女は、医者の二人を交互に見ては俯く。子供特有の医者嫌いの顔に見えて、アルギンはふと昔を思い出した。

 アルギンは七歳の王女を殆ど知らない。その頃アルギンは士官していはしたが、王族との接触なんて一切無かった。あったとしても雲の上の存在だ、軽々しく近づけるような立場にない。

 診察の終わった王女は、不安そうに頭から毛布を被る。ユイルアルトから話をして、今王女は十九歳である事を伝えているが、それを納得している様子ではない。そう簡単に理解できない事だとしても、知らぬ自身の成長と環境の変化を説明するにはそれを伝えるしかなかった。


「……ところで、マスター。もしかして、この方は」


 ジャスミンが話を切り出した。

 二人ははっきりと見てしまった。両の足先から太腿までが、まるで靴下を履いているかのように広く緑色に染まった肌。そして、自分達が接触のあった王族に共通する特徴的な濃紺の髪の色。

 アルギンが「ああ」とだけ漏らせば、二人はもうそれ以上は聞かなかった。察するにあまりあるこの状態に、二人は顔を見合わせ口を噤んだ。


「……防衛反応ねぇ」


 それだけ王女の心に負荷が掛かっていたのだろうか。夜に川で発見されるような事態になるような事になるまで。

 城を離れて久しいアルギンにとって、王女の心労を考えるのは難しい。今まで王家の事なんて、この酒場には殆ど情報は入って来なかった。……つい最近、騎士隊長達が来るようになるまで。


「王女の詳しい話も、これから先を考えるのも、あいつらがいないと何も考えらんねぇだろうなって思うのにさ……」


 アルギンが窓の外に視線を向けた。

 先日から漸く少しづつ戻って来た人通りは今日は少なく、どこかひっそりと静まり返っている。

 窓に近寄って改めて外を見る。人の住んでいる家の窓では、あちこちに黒い旗が掛けられていた。

 少しすると酒場の前を、鎧を纏った兵士達が歩いていく。何かしらビラのようなものを持っていて、それを道行くたびにばら撒いているのが見えた。


「ちょっと静かにしていてくださいね、王女様。……ちょっと、お前さん達!!」


 一度振り返ったアルギンはそれだけ言うと窓を開けて、兵士達を呼び止める。外の風はやはり寒い。


「何だ、っ……あ、アルギン様」


 それはアルギンの顔を認めると途端に狼狽えて敬礼した。アルギンの方にあまり見覚えは無いが、顔が知られている事をこれ幸いとばかりに話しかける。


「様、は要らねぇよ。……ちょっと、何があったか教えて貰えるか。なんだそのビラ」

「これですか? ……ご存じないのですか? 宜しければこちらをどうぞ」

「何かあったのか? 生憎こっちは昨日から妊婦が出産したりでてんやわんやで何も聞いてねぇぞ、……」


 兵士から渡されたそのビラは、国王崩御の報を載せた物だった。アルギンはあらかじめ聞かされていた内容ではあったのだが、それはおくびにも出さずに初めて知ったという顔をする。


「―――。マジか。こないだ快気祝いの舞踏会したばっかじゃんか」

「そういえば、アルギン様はいらっしゃってましたね。……突然の事に、我等も驚いています」

「確かに、快気祝いっつってもお加減は宜しく無さそうだったな。地震といい城下の植物といい、アルセンは散々だな」


 そのビラはくれるというので貰っておくことにした。それから挨拶を交わして、窓を閉める。

 ビラを持ったまま、三人の元に戻った。毛布を被ったままの王女は、アルギンを横目で、しかしその手の中のビラを気になるように見ている。


「王女、まだ貴女は知らなくていい」


 アルギンはそのビラを丸めて、暖炉の火の中に投げ込んだ。それをジャスミンもユイルアルトも、どっちとも止めなかった。今、王女の更なる混乱を招くような事は避けるべきだと解っているからだ。

 火の中でその姿を灰へと変えていくビラを見ながら、王女が残念そうな顔をする。どうやらただ事ではないものが書かれている事は解っていた。けれど、それは王女の目に入る事はもう無い。


「城の連中は、この状況で来れる訳もねぇやな。今日と明日辺りは多分、フュンフもソルビットも来やしねぇだろ。それまで待機って所だな」

「……フュンフ? ソルビット?」

「あー……。」


 王女はその二人の名前にも覚えが無いらしい。王女が七歳というと、もう十二年程前の話になる。アルギンがその頃の騎士の顔ぶれを思い出す。あの頃はまだ、どの隊も隊長が違っていた。アルギンも顔は出てくるが名前までとなると思い出すのに時間が掛かる。


「……サジナイル様やネリッタ隊長の頃だったかなぁ、王女が七歳の頃って」

「サジナイル……ネリッタ……。解るわ、『風』と『花』の隊長でしょう?」

「そう。そうです、覚えておいでなのですね」

「ねぇ、ネリッタは。ネリッタは何処なの? ネリッタと話がしたいわ。何かの間違いって、ネリッタなら言ってくれる」


 その王女の懇願を聞いて、アルギンが俯いた。

 ネリッタ・デルディス。それはアルギンにとっての先代『花』隊長であり、そして、いつかの戦場で故人となった人物である。アルギンが彼の副隊長として勤めていたのも、もう昔の話。

 彼の人望も厚かった。ダーリャと同じくらい、人に慕われていた。アルギンも慕っていた。それももう昔の話。


「……王女、言いにくいのですが」


 その死を切り出していいものか迷った。十二年の間に、それなりの騎士も兵も死んでいる。この年数をいきなり埋めようとするのは、きっと無茶。

 アルギンの様子を、医者二人は不安そうに見守っていた。言い出しにくい、の言葉の先を二人は知らない。しかし、その先はアルギンが言葉を濁すくらいにはあまり良くない情報だと言うのは解る。

 アルギンは話せなかった。話せないまま、そのまま暫く経った。王女は、言葉を重ねて聞いてくるようなことは無かった。なにか良くない事を聞いた。表情がそう感じていると言っていた。


 遠くで鐘の音が聞こえる。

 それは死者を弔う鐘の音だった。街中に響く大きな音。

 城の方から聞こえる気がして王女が立ち上がった。しっかりしない足取りで、毛布を被ったまま窓の側に辿り着く頃には、その音も残響だけ残して聞こえなくなってしまった。


「今の音……そう」


 王女の口から漏れ出る声は、その出所を問うものではなく。


「お父様が亡くなったの。……あれ、どうして、私……」


 何があったのかを理解しているようで、しかし、それを理解できる自分に戸惑うような声だった。


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