第143話


 フュンフがクプラの部屋の前に到着する頃、今度はアクエリアと擦れ違う。大人しく扉の前で待っていると、少ししてアルギンが鍋を受け取りに出て来た。


「あんがと、フュンフ」

「……まだ産まれないのか」

「ちょっと、な。時間が掛かってるみたいだ」


 状況に焦れているのはフュンフの方だった。出産に居合わせたことがあるにはあるが、フュンフはただ待つしかしてこなかった。出産の大変さは頭では解っている筈だった。しかし、こうして協力するとなると感じ方が変わる。


「何故時間が掛かっているのだ」

「それ聞く? 誰も彼もポーンと産まれてくる訳じゃねぇんだよ。これくらい普通らしいぜ」

「時間を掛け過ぎたら母体にも負担が掛かるのだろう? それなのにこれほどまで悠長にしていていいのか」

「悠長にしてる訳じゃねぇよ。クプラも赤ん坊も、皆だって頑張ってんだ。お前さんに出来る事は今は湯を運んでくる事くらいだよ。ほら」


 そう言ってアルギンは鍋を受け取ると同時、その足元の空になった鍋を雑に顎で指し示した。渋々それを拾うフュンフ。


「……もし、母の腹から切開で産まれる事が出来るなら、待つ側もどれだけ楽になれるだろうな」

「母体の大変さにゃ変わりねぇよ。言うだけで居られる奴は気楽でいいよな」


 ちょっとした提案をぴしゃりと言われて唇を閉ざす。アルギンはアルギンで鍋を持ってさっさと中に入ってしまった。

 扉の外にまで聞こえる、クプラの叫び。そして、それを支える女性達の声。

 それを背中で聞きながら、来た道を戻っていくフュンフ。

 これまでの絶叫で耐える痛みなのに、まだ産まれない。

 まるで拷問でも受けているような叫びだ。フュンフはその場にいるのが辛くなって、一階に戻る足を早めた。これだけ叫んでいるのに、その苦痛も声量も変わる事がない。産まれるまでは。


 産声が聞こえたのは、神経を揉んだフュンフが少しと自分に言い聞かせながら寝入ってしまった後だった。

 空はもう、日の光で青く変わっていた。




「おおー」


 アルギンが新生児に感嘆の声を上げる。

 シスターと医者二人は、それはもう流れるような手さばきで処置を済ませた。温かい室内で産湯に浸からせ、寒くないように服を着せタオルを巻き、クプラにも相応の処置を済ませて初乳を含ませる。アルギンはその間、体力を消耗したクプラへの食事を用意するよう言われ、簡単なパン粥を持って来る頃には赤ん坊はクプラの隣で眠っていた。


「やっぱり赤ちゃんって可愛いですね」


 ずっと声掛けをしていたせいで喉が枯れ気味なジャスミンは、疲労の色を見せながらもニコニコしている。クプラの隣で眠る天使は、クプラに似ない褪せた茶色の髪の色をした女の子だった。両手を頭の上に上げるようなポーズで寝るのは、この時期特有のものらしい。

 横になっていたクプラがゆっくりと起き上がる。その膝にパン粥の乗った盆を置く。他に置き場がないからだ。

 クプラはゆっくり、温かい粥を啜った。髪は乱れて顔色が悪いが、長丁場の出産を経験した割には元気そうだ。シスターも出血は少なめだと言っていた。


「名前、決めた?」

「……いえ、まだ……。これから、です」

「……クプラ、どうする? 少し休まなきゃいけないだろうし、アタシ達、部屋出てようか」

「え……えっと、その」


 それはクプラの疲労を気にして言った事。しかし途端にクプラは不安そうな顔をした。心細そうな、見捨てられたようなそんな顔。その顔に弱くなったアルギンが、軽率な自分の発言を僅かながら後悔した。

 クプラの不安を感じ取ったシスターが、横から優しく言葉を掛ける。


「クプラさん、少し休まないと満足にお世話も出来ませんよ。食べたら少し寝てください」

「で、でも」


 クプラの視線は隣にいる天使に。


「……私が寝ている間に、この子に何かあったら……」


 その視線は、もうすっかり母親のそれである。産まれたばかりのか弱い命。それを案じる言葉に、その場にいた全員が優しい笑顔を浮かべる。


「そんなら、アタシ達が見てるよ」

「……良いんですか?」

「大丈夫ですよ、クプラさん。それでクプラさんがゆっくり休めるなら、それくらいお安い御用です」


 貸し部屋の面々で話が付いたところで、道具や色々なものの片付けを終わらせたシスターが立ち上がる。疲れた表情をしているが、どことなく晴れやかな顔に見える。それは無事にお産が終わったからか。


「では、私は戻ります。経験者とお医者様が二人もいらっしゃるなら、きっと大丈夫ですよ」


 シスターは持って来た荷物を引っ提げて、部屋から出る直前にお辞儀をしてその姿を廊下に移した。大丈夫、なんて言い残されたクプラの表情から不安が抜けることは無い。今まで腹の中で養っておけば良かった存在が、激痛で疲労感最高潮の時から世話を必要としているのだから。

 だから、アルギンが寝ている赤ん坊をそっと抱き抱える。赤ん坊用に仕分けた荷物の中からおしめや着替えを手に取り、シスターの後を追うように扉まで歩む。


「食器、置いてて良いから。ちょっと休んでな。おしめ以外で泣いたら連れて来るから」


 それは出産を経験したアルギンの、ほんのちょっとした気遣いのつもりだった。クプラはそれでも不安そうな、でも安心したような二つの感情を綯い交ぜにした笑顔で見送ってくる。ジャスミンもユイルアルトも、クプラを一人にしようとしてその場を後にする。

 階段を降りると、フュンフがシスターと帰り支度をしていた。フュンフの頬には寝ていた跡がついているが、それを茶化すのは憚られてアルギンが沈黙する。

 フュンフも、アルギンが降りて来たのには気付いていた。その腕の中に抱かれた小さな赤ん坊を見ると、眠そうな目をしながらもふと口許を緩ませる。


「産まれたか」

「おうよ、フュンフもお疲れさん」

「別に、……私は特に何もしていない。湯を沸かす仕事も途中で取られた」

「そう言うなって。シスター連れてきてくれたのはフュンフだろ」

「それでも、出産に直接関わったのは私ではない。……大事にしろ、赤ん坊は宝だ」


 フュンフは満更でも無さそうな顔をして、そして、眠気を噛み殺しながらシスターと共に酒場を後にした。一階を見渡してみると、アルカネットの姿もそうだがアクエリアまで居なくなっていた。湯の必要が無くなると同時に寝に戻ったのだろう。

 暖炉の前にはまだ変わらず王女とダーリャの姿があった。ダーリャはアルギンの方を見ているが、王女はまだ目を覚ました様子はない。


「……ダーリャ様」

「産まれたようですね」


 抱いている小さな命を見せに、ダーリャの側に寄る。ダーリャはそれまで座っていた椅子から立ち上がり、アルギンの側に寄った。母の側から離されても、口を山の形にして寝息を立てているその子は母親の面影を少しだけ宿した顔をしている。……言ってしまえば、クプラにはあまり似ている気がしない。


「これはこれは。なんとまぁ可愛らしいお子さんでしょうな」

「……そう、ですね。小さくて、可愛くて、……」


 アルギンは黙っていたが、ダーリャは多分アルギンの言わんとしている事に気付いている。

 クプラの子は、父親似だ。クプラの妊娠を知って出て行ったまま帰らないという、話を聞く限りクズのような男。

 それはダーリャは知らない。けれど女の、しかも身重な身でこの酒場に身を寄せた理由がただ事ではないと知っている。


「……産まれた命です。大事にしましょうね、アルギン」

「………それ言うとアタシの子みたいになりませんかダーリャ様」


 曇っているアルギンの顔を少しでも明るくしようと、ダーリャが冗談交じりで声を掛ける。アルギンもその冗談に、僅かだが口角を上げた。

 無事にクプラの子供が産まれてくれたことで安心してしまったのか、アルギンの微笑んだ口から欠伸が出る。それはほんの一回、しかし長く。それが移ったダーリャも、噛み殺すような欠伸を一度。


「……流石に、疲れましたね」

「一晩起きていたら、仕方の無い事です。それもアルギンは大仕事のお手伝いでしたからな」

「まだお手伝いは終わってないんですがね……。クプラが起きるまでは、この子の見守りもありますし……」


 やる事は幾らでも残っている。しかし、それでも眠気は構わず押し寄せてくる。アルギンは過去してきた双子の育児の時を思い出し、自分には出来ると奮い立たせている。

 眠い。疲れた。でもクプラはもっと疲れている。他に頼れるのは、自分より疲れたあの医者二人だしなぁ。そんな考えがアルギンの頭の中を駆け巡った。


「……すみませんダーリャ様、コーヒー飲んで来たいんで、少しこの子をお願いできませんか」

「それは構いませんが……、起きませんかな、大丈夫ですかな」

「少しだけなら大丈夫だと思い、……たいです。今度持ち運べるベッドでも安く買えないか見て来ましょうかね……」


 差し出されたダーリャの腕に、そっと赤ん坊を抱かせる。慣れた手つきの抱っこでは、赤ん坊は起きることは無かった。ただ驚いたように体を震わせて少しだけ顔を顰めて、けれどそれだけでまた眠りに落ちていく。

 ダーリャが破顔した。新生児特有のその反応はとても愛らしい。


「……自分の子供でもありますまいに、ベッドの心配もなさるのですな?」


 ちょっとだけ茶化すようなダーリャの発言。それには別段気にするでもない、寧ろ当然とも言いそうな表情で答えた。


「自分の子供じゃなかったらベッド無くていいってのも嫌な話ですからね」

「………。本当に、貴女という人は」


 子供は宝だ。それは二人の共通認識。それが誰の腹から産まれ、誰の種から存在しているかなんて関係なかった。

 ダーリャの腕の中で眠っているのは、純粋無垢な天使。その寝顔を少しだけ見守った後、アルギンがキッチンへ向かって歩き出そうとする。


「―――ん」


 それは小さな声だった。けれど、しっかりした声だった。

 ダーリャが反射的に腕の中の赤ん坊を見る。しかし、赤ん坊は何も言わず、身動きもせずに寝ているままだった。

 アルギンがぼんやりした頭で振り返った。アルギンもまた、赤ん坊が何か言ったのだろうと思っている。しかし、視線の先のダーリャは赤ん坊とは違う所を見て固まっていた。


「王女」


 ダーリャの口から、呼称が漏れる。


「王女!!」


 まだ寝ていた筈の王女に駆け寄るダーリャの姿を見て、一瞬で眠気が飛んでいったアルギンもまた、王女に駆け寄る。

 王女の目は半分開いていた。運ばれてきた時より、顔色は良くなっている。

 濃紺の長い髪が、流れて落ちる。毛布の中から青白ささえ見せる細腕を出し、自分の顔に手を当てた。


「あれ、わたし」


 切れ切れの言葉は、年若く細い綺麗な音。光に眩しそうに瞼を閉じて、再び開いた瞳は深い青色。

 

「王女、お気付きですか」

「良かった、目を覚ましたんですね」


 ダーリャとアルギンが二人して声を掛ける。王女はその二人の顔を見比べた。見比べて、そして。


「―――あなたたち」


 その唇が開かれる。


「だれ?」


 それはあどけない子供のような声だった。

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