第141話


 酒場の扉が再び叩かれたのは、一日の中で一番寒くなる時間が訪れる前。

 何杯目か数える事もしなくなったアルギンのカップにはまた新しいコーヒーが注がれている。昔ならこの程度の夜番など苦にもならなかったが、騎士の地位からも子育てからも離れている今となっては少々堪えるものがある。だから、扉が叩かれた時はやっとか、と思って安心したものだが。


「アルギン様! アルギン様!!」


 声の大きさを落として聞き取りにくいものではあるものの、切羽詰まった様子でアルギンの名を呼ぶ声はフュンフのものではなかった。その時点でアルギンに嫌な予感が走る。

 閂を外して扉を開く。そこにいたのは孤児院のシスターの一人だった。馬を繋がず、そのまま手綱を引いている。よく見れば、そのシスターの着ている服は濡れているようだった。その状況の異様さに、アルギンが外に出る。


「アルギン様、ああ良かった、起きていらしたんですね」

「こんな時間にお呼び立てしてすみません。ですが、フュンフはどうしたんです」


 シスターが来たからには、クプラの産婆役なのだろう。しかし、それを呼びに行った筈のフュンフの姿がない。

 冬の夜、外はあまりに寒い。それなのに濡れているシスターは、暗い中でも解るくらいに震えていた。


「フュンフ様は後から追いつくと言われました。それが、アルギン様、こちらを」

「こちらって、―――え」


 こちらと言われて馬上に顔を向けたシスター、その先をアルギンが見る。視線は動かない大きな塊に向くが、それはアルギンには人の姿のように思えた。

 フュンフが着ていた気がする上着を体に巻いているが、その体から水が滴っている。ぱたり、ぱたり、流れ落ちる雫は地面に垂れる。


「到着されましたかな」


 階下の様子が気になったらしいダーリャが階段から降りて来た。背中に掛けられた声にアルギンが振り向く。ダーリャが近寄って来るが、状況をどう説明して良いか解らずシスターをもう一回見た。


「……シスター、これは一体どういう事なのです」

「詳しいお話は後で。ダーリャ様、どうか力をお貸しください」

「はて、力とは……うむ?」


 ダーリャも外に出てきて馬上の人影を認めた。それ以上何も聞かず、急いでその人影を抱き抱える。その間にも雫は後から後から流れ落ちてきて、今度はダーリャの体さえ濡らしていった。一階の暖炉の側に椅子を寄せ、ダーリャはその人影を座らせた。暗くて、その時はそれが誰かなんて分からなかったけれど。

 ダーリャはその時になって、その人物の姿を見る。見覚えのある姿、それはダーリャの思いもしない人物だった。


「……おや? アルギン、こちらへ」

「はいはいよ」


 馬を外に繋いで、濡れている馬とシスターの為にタオルを取りに下がっていたアルギン。閂は閉めないまま、シスターにタオルを二枚渡してダーリャの声に反応する。

 人影は勿論ダーリャも濡れているだろうと更に追加のタオルを持ってきて、それからアルギンは人影をやっとしっかり見た。


「……げぇ!!?」


 その瞬間、アルギンの口から出たのは驚き。

 タオルを受け取ったダーリャがその反応にむっとする。


「げぇ、とは何ですか。げぇとは」

「だ、だってダーリャ様。これは……ないわ……」


 その人物は、濃紺の髪の持ち主であった。


「あんな話をしていた昨日の今日で、こんな事態になるなんて思いますか?」

「それよりアルギン、彼女に着替えを。流石に私が服を脱がすのは憚られる」

「そうですね、……持って来るから、それまでお願いします」


 その人物は、二人が知っている者であった。


「……記憶より、淑女になられましたな」


 ダーリャが優しい声で言うのは、彼の記憶の中のその人物が幼いからで。目を閉じている彼女の髪から垂れる雫を拭うダーリャの目は優しかった。ダーリャにとって、目の前のこの人物には暫く逢ってなかったせいで『誰』であるかには自信が無かったが、先程のアルギンの反応からして間違いないだろう。

 少し待てばアルギンが着替えを持って来た。酒場内に入って来たシスターを連れてダーリャが二階へ向かうと、アルギンは彼女の服を脱がして濡れた体を拭ってやり、暖かい服を着せて毛布を掛けてやった。その間も、彼女は目を覚まさない。


 その人物は、アルセン国の末の姫、アールリトだった。




「施設に戻ると、王女が行方不明との報を受けたと聞いてな。まさかと思って川沿いを走らせていると、偶然―――本当に、偶然だ。川の中に王女を見つけた」


 フュンフはシスターの言葉通り、遅れて酒場に到着した。扉の向こうにいたフュンフは、この凍えるような夜にずぶ濡れで、唇も顔色も真っ青だった。慌ててアルギンが暖炉の前に誘導する。

 急いで風呂を沸かしなおし、出産間近の妊婦がいる酒場の状態を考えてか着替えを持ってきていたのでそれに着替えさせ、温かいお茶を淹れてやった。それまでして漸く人心地付いたようなフュンフは、暖炉の側で眠り続ける王女の姿を確認しに行く。


「……今、王女の捜索隊が組まれているそうだ」

「本当、問題事しか来ねぇよなぁこの酒場にはよ」


 若干フュンフへの恨み言も混ぜながら、アルギンが吐き捨てた。王女は今や渦中の人だ。彼女の望む望まざるに関わらず、この一人の存在だけで国が動く。一体何故こんな状態になっているかなんて、アルギンには解らなかった。

 昔、ほんの一時期だけ、この王女の側に仕えた事がある。

 その頃まだ幼くて、年齢も十と行かなかった彼女。アルギンは思春期を迎える前の彼女の世話役を一年程言いつけられた。期間は短かったが、利発な彼女の側仕えになった期間は楽しい事が多かった。相手は子供、それも王女と言うのにどこか気が合ったからかも知れない。アルギンが子供を苦手としないのは、その時の経験もある。

 そんな思い出のある彼女と、久し振りの再会。だというのに、彼女は目を覚まさない。


「ここまで捜索隊、来そうか」

「解らんな。見つからなければ捜索範囲は広げるとは思うが、それがいつになるか……」

「この酒場が罷り間違って変な罪被せられんようにしてくれよ、頼むよ」


 アルギンのその言葉は切実だった。フュンフもそれを解ってはいるが、捜索隊の探し方次第ではこの酒場の捜索対象に入るのだろう。そして、王女がもし見つかったとして、見つけた者が王妃派であった場合―――この酒場に下る処分は、火を見るよりも明らかで。


「しかし、どうすんだよフュンフ。こっちに王女連れてきてさ」

「どうする、とは?」

「今の状態から更に王女の保護とか無理だぞ。一体うちは幾つ爆弾抱えりゃいいんだって話だよ」

「爆弾、などと。王女は今の所、最大の切り札になり得る。切り札は手の内に握っている方が安心だろう」

「切り札? 王女をそんな風に言うんじゃねぇよ馬鹿野郎」

「………王女を爆弾呼ばわりしたお前に言われるとはな」


 ぴしゃりとアルギンに言われて、驚いた様子のフュンフ。暫くして、彼女が王女の世話役として仕えていた事を思い出した。その頃の話は、アルギンをアルギン個人として認識する前の事。

 そのせいか、フュンフの目から見た王女を見るアルギンは穏やかだ。元から女性には優しい女ではあるが。


「まぁ、仕方ねぇよな。おいフュンフ、このツケは高くつくぞ」

「私が払うのかね? こちらとしては払って貰わねば割に合わないのだが」

「聖職者が割とか考えんじゃねぇ」


 二人が言い合っているうちに、階段から誰かが降りて来る音がする。二人が振り返るとそこにいたのはダーリャで、何やら困ったような不機嫌なような複雑な心中を形にした表情を浮かべている。

 フュンフが思わず佇まいを直した。それに釣られてアルギンも直立の姿勢になる。


「アルギン、お医者の二人を起こして頂いて構いませんか?」


 それは少しだけ焦りが混じった表情にも見える。


「え? ええ、構いませんが……あの二人ならノックしたら起きると思いますよ」

「私が女性を起こすのは躊躇われまして。……出来れば、急いで頂きたい」

「え、それって、もしかして」

「……陣痛が始まったようです」


 ダーリャの言葉にフュンフがアルギンを見た。アルギンは、そこまで焦っていない様子で頷く。この事態に備えるために、フュンフがシスターを呼んでくれたのだ。だから、アルギンは焦らない。


「解りました、起こしてきます。ダーリャ様は、フュンフと一緒にここにいてください。王女がいつ起きるか解らないので」

「……承知した」

「解りました」


 アルギンが軽い足音をさせて階段を上がっていく。フュンフも、王女の見守りとなれば了承せざるを得なかった。そこで二人残された状況に、フュンフが居心地悪そうに顔を俯ける。かつての上司であるダーリャの存在は、嫌うでないにしろ今更出て来られても困る存在だった。特に、今のような国の状況では。

 暫く二人が無言でいると、アルギンが足早に階段から降りて来る。その足でそのままキッチンに入り、恐らくは湯を沸かしているであろう間に水を汲んでまた階段を上がる。


「……立派になりましたな」


 ダーリャが呟いた言葉に、フュンフは無言だった。アルギンが手放しで褒められている気がして不愉快だったのも事実。


「時間というのは残酷であれど、置き去りにされるのはいつも私の方だ」

「……立派などと。あの女の事をダーリャ様は買い被り過ぎでは」

「いえいえ」


 ダーリャは微笑む。


「貴方の事でもあるのですよ、フュンフ」

「―――。」

「彼の後を継ぎ、部下を率い、施設の運営も力を注ぎ、貴方も立派になりました」


 フュンフはもう既にそれなりの経験を積んだ中年だ。若者に言うような、そんな誉め言葉を受けてフュンフが目を丸くする。しかし、相手はそれ以上に人生に於いても経験を積んだ初老の男なら。

 何も言えなかった。声を掛けてくれた事への礼も、もうそんな事を言われる年でないと突っ撥ねる事も。ダーリャは無反応なフュンフの胸の内をも見透かしたような笑顔で、ただ彼を見ていた。


「文字通り、この国の行く末は貴方達に掛かっているのですからね」

「……そのような言い方をされても、私は私に出来ることしか出来ませんよ」


 ダーリャの激励だった。けれど、フュンフはそれを簡単には受け入れられずにいつもの皮肉で返す。

 未だ目覚めぬ王女を余所に、上階は次第に騒がしくなり始めた。


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