第93話
「……それ、本当か?」
オリビエの失踪から二週間が経ったある日、難しい顔をしてアルカネットが昼過ぎに酒場に帰って来てからの話。
珍しく帰宅後にアルギンに温かい飲み物を要求したアルカネット。目の前にミルクティーが置かれた状態で、酒場のカウンター席に座っている。
アルギンはオリビエの件を諦めかけていた。そんな中、アルギンはアルカネットの言葉に目を見開いていた。
「解らない。……ただ、今縋れる情報があるとすれば、それだけだ」
アルカネットが持って帰ってきた情報――オリビエは十番街の病院に入院している――。
十番街の病院は、アルギンも何度も世話になった所だ。自分の妊娠を知ったのもその場所。アルギンは地図を見なくても、その病院なら歩いて行ける。
「何で入院なんて? それに、人探しの記事を新聞に載せてたのに、なんで見つかってないってなってんだ」
「……あの記事だろ? ……記事の片隅で、一番目に付きにくい場所で。それも一回きりだ。……十番街のお偉い方が、あんな小さな新聞社の新聞を読んでるかも解らない」
「………。」
アルカネットの言葉に、アルギンが黙る。新聞社の悪意は解っていたが、自分で感じるのとアルカネットが突きつけるのとでは訳が違う。アルギンは溜息を吐きながら、自分の煙草に火を付ける。
溜息と共に吐き出される紫煙を見ながら、アルカネットが周囲を落ち着かない様子で見回した。
「ところで、……オルキデとマゼンタは、今日は?」
「出てるよ。ここ最近外出多いんだよな。掃除して行ってくれるからありがたいけど、たまにはゆっくり休んでくれても……」
「そうか。じゃあ、良かった」
アルカネットの言葉に、アルギンが瞬きを繰り返す。言葉の意味が解らない、とでも言うように。
ミルクティーがアルカネットの長くて太い指に持ち上げられる。僅かに含む程度に飲んだアルカネットは、カップを置いた後神妙な顔をして話し始めた。
「この前のオリビエも、都市伝説について話していたんだ」
「都市伝説?」
アルカネットは、あの時にオリビエが話していた事について隠さず話した。もう隠す意味が無かったからだ。
アルギンにも、アルカネットが言葉で並べた彼女が追っていた都市伝説については心当たりがあった。ミュゼとスピルリナの姿がアルギンの脳裏でぐるぐる回転して消える。
そして、アルカネットの話が一番街にまで辿り着く。アルギンはそれを聞きながら、自分の持っている情報と照らし合わせた。
「……情報屋も、オリビエに似た奴が一番街との境で何かしてるって言ってた」
「多分、間違いなくオリビエだろうな。……それで」
「……?」
「その話をしているのを、多分マゼンタに聞かれていた」
神妙なアルカネットの顔に、アルギンが何かを薄々感づいた。まだアルカネットは知らないだろうが、オルキデとマゼンタは現王妃の妹。通行証が必要な程に秘匿されているあの壁の向こうで、王家は何を考えている?
アルギンが頭を抱えた。しかし、考えてもやる事はひとつ。
「アルカネット、この後暇か」
「ああ? ……暇、っていう程でもないが、時間はある」
「十番街行くぞ、一張羅着てこい」
「一張羅って……、俺そんな服に余裕がある訳じゃないぞ」
「…………。」
アルギンとアルカネットが、十番街の病院に姿を現したのはその一時間後だった。
二人は少し他所行きの格好をしていて、十番街の整えられた街並みにはそれなりに馴染む姿になっていた。
アルギンは晩秋に似合う濃茶のシンプルなワンピース。アルカネットは黒のシャツと白のズボン。少しサイズが合っていないらしく、アルカネットは窮屈そうにしている。
「似合うぜ、良かったな」
「………あんまり嬉しくねえな」
それはアルギンの亡夫の持ち物だった。亡くなって五年が経って、流石にいつまでもクローゼットに寝かせて置いてても仕方がないのでそのままアルカネットに渡した。ガタイが良いアルカネットでは、ちょっとサイズが小さかったようだが。
病院内に入り、受付に話しかけると、受付の看護師はアルギンの事を知っていて、事情を話して病院内を案内してもらった。
いつか歩いた、覚えている病院内。アルカネットも、アルギンの見舞いの際に通った事がある病院内の通路だった。
やがて看護師と二人は、名札も無い病院の個室に案内される。扉がノックされ、それから開く。
寒くなってくる季節でも、日中はまだ暖かい。穏やかな日差しと開いた窓から風が入り込む部屋で、部屋の患者はベッドに横たわっていた。
「担当医を呼んできますので、このままお待ちください」
そう言って、受付の看護師は居なくなってしまった。
残された二人がベッドまで近寄る。そこで眠る姿は、痩せこけてはいるものの、二人が知っているオリビエその人だった。
「……オリビエ。……オリビエ」
ベッドに掛かっている筈の名札も空欄のままだった。アルカネットがオリビエの荷物を確認した。しかし、そこにあるのは鞄だけだ。アルカネットも見た事ある、仕事の荷物が入っている鞄。
アルギンが声を掛けても、オリビエは起きる気配を見せなかった。
「起きないんです」
扉は再び開かれ、医師らしい男が中に入ってくる。アルギンはこの医師を知らない。しかし、取り敢えずとばかりに頭だけは下げておいた。
医師はベッドのオリビエに近寄り、体に掛かっているシーツをそっと外した。中には五体満足のオリビエの体があるだけ。
「……ここに運ばれてくる前から、ずっと眠ったっきりだそうなんです」
「眠ったまま? 生きてはいるんだな?」
「ええ。ですが、このままでは、いずれ―――」
アルギンはそっと、露わになったオリビエの手に触れた。シーツの中にあったとは思えない程に、とても冷たい。それでも脈は感じられて、アルギンは安堵する。
「気付け薬も試しましたが、何故こうなっているのかは不明です」
「……ここには、いつ運ばれて?」
「そうですね……、一週間程でしょうか。突然夜中に、夜勤の当直医が患者を受け入れたと。病院の外で倒れていたそうで」
「倒れていた?」
「ええ。他に人の気配も無く、……ああ、ですが」
次に話す医師の言葉に、アルギンが凍り付く。
「花の香りがした、と」
アルカネットは早々に病院を出て、自警団と新聞社にオリビエが見つかった事を報告に行くそうだ。浮かない顔を見るに、自警団はともかく新聞社には行きたくなさそうな顔に見えた。
残ったアルギンは、暫くオリビエの様子を見ていた。それから、こっそりと荷物の確認も。
鞄の中にはメモ帳が数冊、それから財布。財布の中身は充分とは言えないものの、それなりの額が入っているので物取りに襲われたということまでは無いだろう。
鞄自体は、底に砂が付いていた。一応鞄を手に取って、周りをぐるりと見てみる。
「………?」
さらりとした紫色の粉が付いていた。
「………。」
その周囲に、もう乾いてしまった何かの跡が見える。……それから、僅かながら花の匂いが漂った。
これまで何回か……それこそ二番街でも嗅いだことのあるような、不思議な花の匂いだった。この匂いがする人物を、アルギンは一人だけ知っていた。
「これか」
アルギンが誰にでもなく、ぽつりと呟く。
少しだけ、状況が見えた気がした。
「オリビエに危害加えたの、お前さんだな」
それは突然の事だった。酒場に帰宅したアルギンは、今日は酒場を休みにすると言い放った。
それからすぐに休みの看板を出し、代わりに、もう帰宅していたマゼンタを捕まえてテーブル席に座らせる。
帰宅直ぐにアルギンから言い放たれた言葉を、反芻するように目を丸くして黙っているマゼンタ。アルギンの顔は、本気だ。
「何で手ェ出した。これは王妃の差し金か?」
「……どうして」
マゼンタは驚きもしなかった。
「どうして、マスターが怒ってるんです?」
「―――……。」
怒っている、と、言われた。そのアルギンが、一番驚いていた。
アルギンは、自分ではそうと思っていないだけで、随分オリビエに深入りしていた。関わった短い時間の中で、オリビエに思い入れを抱いてしまっていた。
アルギンが今更それに自分で気づいた。もう、遅い。
「アタシは、そんな……別に」
「じゃあ、いいじゃありませんか」
マゼンタの言葉に耳を疑う。それは、いつも快活で人当たりのいいマゼンタの言葉には思えなかったからだ。
マゼンタ。プロフェス・ヒュムネの、王家の血筋。テーブルに両肘を立てて指を重ねて遊んでいる、その姿はいつもと変わりがないのに。
「このギルドは『王家に仇成す者の殲滅』が一番の目的でしょう? ……あの人がそうならないうちに、手を打っただけですから」
「……それは」
とても可憐な少女、マゼンタ。その笑顔に空恐ろしいものを感じて、アルギンが一度震えた。
「オリビエが調査していた都市伝説に、王家に仇成す秘密があったとでも言うのか?」
「………。さあ?」
艶を持つその唇から、吐息が漏れる音がする。それが微笑の為だとアルギンが理解した瞬間、服の下の見えない肌が粟立つのを感じた。
笑いながら、マゼンタが席を立つ。その瞳には、一切の悪意を感じなかった。
「それ以上は……私の口からは、とても」
マゼンタはそのまま自室に向かっていった。アルギンは、聞きたい答えも聞けたようなものなので、その背中を追う事はしない。
今まで見てこなかったマゼンタの一面を見て、アルギンが僅かに震えていた。
見た、訳でもないかもしれない。だって、マゼンタは―――
いつもと、全然、変わらなかったのだから。
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