第80話




 アルギンの時間は、暫くの間穏やかに過ぎた。


 酒場は相変わらずの客の顔ぶれだった。

 時折他隊の騎士や元配下も訪れ、オルキデやマゼンタ、アルカネットやアクエリアもアルギンを気遣いながら時間が過ぎる。

 日々大きくなる腹に毎日声を掛けていたアルギン。愛する人との間に出来た子供だ、愛おしくない訳がない。


 しかしアルギンは不安だった。


 アルギンの腹は、本人でも不安を抱くほど、どんどん大きくなっていったから。




「ん、んんんんんんっ」


 そしておおよそ臨月に達したある日、それは訪れる。

 アルギンが夜中目を覚ますと、激しい腹痛に襲われた。

 尋常じゃない痛みに、一人では起き上がれない程の苦痛を感じる。

 呻き声が聞こえたのか、オルキデが扉をノックして入って来た。


「マスター、大丈……マスター!?」


 中に入ったオルキデが見たのは、ベッドから降りてその横で蹲っているアルギン。近くにあった蝋燭に照らされた顔面は蒼白で、冷汗を流していた。よく見ると、アルギンの足元の床には水溜まりが出来ている。

 痛い。

 苦しい。

 痛い。

 痛い。

 アルギンの顔が物語る苦痛は、オルキデを即座に動かした。


 オルキデは直ぐ酒場の面々を叩き起こす。

 マゼンタは直ぐに湯を沸かし、オルキデとアクエリアはアルギンをもう一度ベッドへ寝かせて酒場中を走り回り『その時』に向けての準備を始め、アルカネットは産婆を呼びに町を駆けた。

 出産の時がやって来たのだ。水溜まりは破水だった。


「……おる、きでぇ……アタシ、ヤバイ、コワイ」


 ありったけのタオルと湯の準備は出来た。桶で簡易的な新生児用の風呂の準備もした。

 アルギンはオルキデの手を握ったまま、陣痛の合間にある僅かな休憩時間に弱音を漏らす。

 アクエリアは、部屋の外、酒場のカウンター席に座ってその時を待っていた。


「もうすぐ産まれます。大丈夫ですから」

「……こんなに痛いんだね……。無事に産まれてきてくれるかな……」

「大丈夫ですよ。何か飲みますか?」

「……みず、水……欲しい」


 息も絶え絶えといったアルギンに、献身的にオルキデが世話をした。

 一人では飲みにくそうにしていたコップも、オルキデが支える事でなんとか水を飲むことが出来る。

 痛い。

 痛い。

 苦しい。

 アルギンは襲い来る、内臓を万力で締め上げられるような痛みに何とか耐えていた。


「……怖いよ……」


 こんな痛みは初めてだった。戦場でこの痛みを味わう時は、きっと死ぬ時だろうとアルギンがぼんやり思う。

 意識も朦朧としてきた。呼吸も荒い。―――そして、再び痛みの波が襲う。


「いっ………あ、あああああああ」

「マスター! 息を、息をしてください!」

「して、る、痛、痛い痛い痛い!!」


 陣痛の感覚が狭まって来た。オルキデが取り乱しかける、その時。


「アルギン、連れてきた!!」


 外から帰って来たアルカネットが、産婆を連れて部屋に入ってくる。

 産婆は直ぐにアルギンの様子を確かめた。持って来た荷物を下ろしながら、アルカネットを見ずに言葉を掛ける。その声は優しかった。


「……ごめんなさいねぇ、男の人は出て行ってくれるかしら」


 産婆がアルカネットにそういうと、彼は動揺しながら部屋を出て行った。


「お手伝いをお願いできる?」

「はい、私で出来る事なら。……マゼンタ、マゼンタ! 手伝ってくれ!!」


 オルキデはマゼンタを呼んだ。アルカネットと入れ違うように入ってきたマゼンタ。

 そうこうしている間もアルギンは呻いている。人生初のその痛みに、涙さえ浮かんでは流れていた。


「……漸く、赤ちゃんに逢えますね。頑張ってください、アルギン様」


 産婆の声が優しく掛けられる。その言葉に、魂の抜けかけているようなアルギンの瞳に灯りが灯った。

 逢いたかった。愛しい人との子供。自分の新しい存在理由。


 今、ここに『彼』が居ないことが、とても悲しくて心細い。

 けれどアルギンは、そんな事を考える余裕も無い程の痛みに何度も何度も襲われる。




 一方、蚊帳の外になったのはアルカネットとアクエリアだ。

 アクエリアはカウンター席に座って平然とした様子を保っているが、顔は真っ青だ。

 アルカネットはその辺をうろうろしている。そんな二人の耳に、アルギンの絶叫が届いている。


「……まるで扉一枚先で拷問でも行われているようですね」


 沈黙と空気に耐えきれず、アクエリアがそう漏らした。


「……こんな所、居合わせるのも初めてだ」


 アルカネットが小さく呻く。こんな状態では部屋に帰って寝直すことも出来そうにない。

 アルギンの絶叫と女性達の声が、酒場内にも響いてくる。アクエリアはカウンター内に入って水を一杯飲んだ。

 アルカネットもそれを催促する。新しいコップに注がれた水を、そのまま一気飲みした。


「産婆さんはこの状況に慣れるほど子供を取り上げているんでしょう? 凄いですよね」

「……全くだな」


 アルギンの絶叫がまた弱まる。男二人には部屋の中で何が行われているか、解ってはいても理解できない。


「アクエリア!! お湯!! お湯沸かして! 持ってきて!!!」


 今度はオルキデからの絶叫だ。転ぶようにアクエリアが走り出し、キッチンで急いで湯を沸かす。


「アルカネットさん! 水! マスターに水をお願いします!!」


 今度はマゼンタの絶叫。アルカネットが水を用意しようとグラスに手を伸ばす。手が滑って二つ割れた。

 酒場内は大わらわだ。それからどのくらい経ったのか、アクエリアとアルカネットが失神しそうになるころ、漸く産声がひとつ上がった。


「……おい、アクエリア」

「………ええ」


 小さく、けれど強い泣き声だ。しかし、部屋の中は緊迫した声が続いている。


「アクエリア!!!」


 オルキデの焦った叫び声。


「お湯!! 足りない!!!」


 アルギンの絶叫はまだ続いていた。

 何事か考える前に、アクエリアは走り出していた。


「マスター!! マスター!!!」


 マゼンタの声もする。アルカネットはもう考える事を放棄した。


 もう一つの産声が上がるのは、それから小一時間経ってから。

 空にはもう朝日が昇っていた。




 産まれてから、子供が双子だったと判明した。

 アルギンは疲労が過ぎて、初乳をやってから眠ってしまった。

 産婆はささっと新生児にするアレコレを終わらせた後、お世話のやり方を今居る面々にに簡単に教え、帰っていった。

 オルキデもマゼンタも疲労困憊といった所だ。新生児の二人も、アルギンの部屋にあるベッドに寝かされてからすやすやと眠っている。


「……お疲れさまでした」


 アクエリアがオルキデとマゼンタを労う為にお茶を出した。

 オルキデは熱くないそれを一息に煽り、マゼンタは逆にゆっくり飲んでいる。

 アルカネットは神経をすり減らし過ぎて、テーブル席で眠ってしまった。一番何もしていないのに、一人前に気を揉んだらしい。


「貴重な体験だった……」


 オルキデは長い黒髪を纏めて結んでいたそれを取り、頭を掻いた。超安産でたった数時間の出来事だったが、少しやつれたようになってしまっている。

 マゼンタはお茶をゆっくり飲みながら、その瞼が今にも落ちそうになっていた。


「……使ったタオル、どうします」

「捨てるしかないだろうな。……少し寝たら買いに行ってくる」


 全員が全員、酷く疲れている。自然、今日から暫く酒場が休みに決まった。

 暫くはアルギンも新生児の世話や自分の体の事で大変だろう。オルキデもマゼンタも、アルギンが無理をしないよう協力しようと固く誓った。




 アルギンが起きたのは、それから暫くして。

 一人の部屋が一人では無くなった。小さく愛らしい存在が、一つのベッドで並んで寝ている。

 親譲りの銀髪は、片方が暗く片方が明るい。目に見える違いはそれくらいだ。

 ベッドから立ち上がり、まだふらつきの残るその足で二人が眠るベッドまで歩いた。

 規則的な呼吸で寝ているその二人の、小さな掌を指でくすぐる。


 名前、まだ決めてない。


 アルギンが目を細めた。産まれてから決めるつもりではいたが、産まれてすぐ名前で呼んであげられないことを後悔した。

 急いで決めるものでは無いと思っていたが、陣痛は突然やって来た。先に決めておけば良かったと思いながら、二人の小さな手を見つめる。


「……ウィスタリア」


 それは、明るい銀髪に。


「コバルト」


 それは、暗い銀髪に。

 名前の由来は空だ。朝焼けの紫色と、晴れた空の色。未来が明るくなるように、と。


「ようこそ、この世界に。……愛してるよ」


 アルギンが笑顔で二人に言った。

 同時に、寝ていた二人がその途端大きな声で泣き出した。


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