彼女たち

幕間慶

彼女たち

『今何が見える?』

 手の中の液晶にそのメッセージを受け取ったとき、彼女は浴槽の中だった。顔を上げて湿った空気の中を少し見回す。湯をかけても全く反射の兆しを見せない曇った鏡。ボディソープのボトル。掃除用のスポンジ。バスタブ。ふと目を落とすと、バスミルクで乳白色に濁った湯の中でゆらゆらと一筋の赤が立ち上っていた。経血だった。途端に忘れていた下腹の疼痛がじくりと唸る。

 それらを羅列して送り、彼女は浴槽の栓を抜いた。ごぼごぼと音を立てて、彼女の皮脂と経血と汗の混じったお湯が吸い込まれていく。立ち上がりながら風呂掃除用の洗剤スプレーの中身が切れていたことを思い出した。洗剤をつけずに洗ったバスタブにシャワーの湯を流し、脱衣所で化粧水を顔に叩き込みながら彼女はメッセージの送信主の景色を夢想した。

 下着を手にとって初めて、溢れ出した経血が内股を汚していることに気が付いた。化粧水用のガーゼで拭い取ると、絵の具のように妙に明るく鮮やかな赤がべったりと付着する。彼女にとってうんざりする生理現象ではあったが、今日の平和な日常生活で見ることの少ない体液には未だに虫を潰す子供のような好奇心が持ち上がり、まじまじと眺めていた。一体全体どうして怪我をしたわけでもないのにこんなに血が出るような造りをしているのか、奇妙でならなかった。動物にとって血が出るということはエマージェンシーと同義だろうに、子孫を残すには必須などとは、彼女にとっては非合理的にしか思えない。

 それでもきっと何か意味はあるのだろう。処女喪失が痛みを伴うのと同じように。神様の設計ミスだとか、もっともらしいことには子作りに最適な時期の目印だとか。

 しかし彼女には無縁の、少なくとも今は考えることができない可能性の関わる話なので、とにかくこの設計が自分にも組み込まれていることが煩わしくてならなかった。

 彼女は家族というものが嫌いだった。


『シャワーノズル。ボディソープ。洗面器。鏡。蒸気。生理の血』

 彼女は揺れる地下鉄の中でその単語の列を眺めた。

 送ってきた相手は入浴中だったらしい。

 別段大した目的は無い質問だったが、最後の一つがユニークだと思った。何か面白いものがあれば写真を送ってくれと言うつもりだったが、これでは頼むことは難しい。

 ふと電車広告の鮮やかな色が目を引いた。直に迫る母の日に向けて、ショッピングモールでのプレゼント販売を謳っている。赤いカーネーションの花弁がいくつかハートの形になって渦を巻いていた。

 彼女も実家の母にプレゼントを贈らねばと思っていたことを思い出し、何にしようかと思慮を巡らせる。甘いものが好きな母にはよく菓子を送っていたが、去年は花がいいと言われた。プリザーブドフラワーのような加工された永遠の花ではなく、自然に枯れる生花が良いと。送料や手間賃としていくらか値の張るところはあるが、彼女は母が欲しいと言うならと少し手の高いブーケを注文した。母からは礼の電話を受け取っった。

 今年は何にしようか。カメラが欲しいと言っていたが、さすがに花と比べるとゼロの数が一つ違うのは難しい。彼女だってそう簡単に買おうともできないものだ。今回は我慢してもらうしかない。

 オンラインショッピングのサービスのウェブページやアプリをいくつか並列で立ち上げて、値段や商品の豊富度を比較しながら候補を絞り込んでいく。通勤途中に手の中でウィンドウショッピングができる時代が来るとは、十年前まで誰も思いもしなかっただろう。

 耳に差し込んだイヤホンから突き抜けるような高音で歌が流れる。澄んだ青空を彷彿とさせるこの曲は、メッセージの送り主が教えてくれたものだった。添付されていた動画サイトのURLからプロモーションビデオを視聴したその日にアルバムCDを借りた。

 いつの間にかプレゼント選びに夢中になっていたらしく、曲のクライマックスの隙間を縫って届いた電車アナウンスは会社の最寄り駅を告げていた。最終候補は、花束、ガトーショコラ、最近手芸に凝っているというので、かわいい素材が詰まったセット。最後の絞り込みは帰り道にしようと、彼女はスマートフォンをポケットに仕舞って電車を降りた。

 母の喜ぶ声が聞きたい。

 彼女は家族が好きなのだから。


『母の日のプレゼント、決めた?』

 そういえばそんな時期だったと彼女はコーヒーを啜った。カレンダーを見るとちょうどあと一週間だった。今頃ネットショップや各百貨店は発送の準備や在庫の発注で大わらわなのかもしれない。

 毎年、母は母の日や誕生日、記念日などに必ず決まって彼女に催促した。何か言うことはないの、と朝起きておはようの挨拶よりも開口一番にそれなので、おめでとうございます、と彼女は言った。それから、何か渡すものはないの、と来るので、用意していれば『何か』を渡す。それが実際母が喜ぶものだったとは思わない。小さい頃はプレゼントを買えるような小遣いなどなく、そう言うと、じゃあ手紙を書いて、と言われた。そして書くと、母に渡す手紙を母が添削し、足りないと言った。「私はママが大好きです。ずっと元気なママでいてね」そ書き足してようやく満足したらしい手紙を清書し直し、渡した。物を渡せば手紙を強請られ、手紙を渡せば物を強請られる。

 去年の暮れに帰省したとき、母は菓子棚を漁った。彼女が自分の家に戻るときは、やたらあれこれ持たせたがり、その時も他にスーツケースに詰められるものが無いか探していたのだ。彼女はそれが、母が自分にあげたいものなのか、捨てるには勿体ないが必要ないものを押し付けられているのかどちらかわからなかった。

 やがて母が振り向き、紅茶好きでしょ、と手渡してきたものに彼女は暫し狼狽えた。それは彼女が高校生の頃に誕生日だか何だかで母に渡した紅茶だった。丸々六年ほどは戸棚の中で眠っていたことになる。母は入手した経緯をすっかり忘れているようで、彼女の礼を待っていた。

 ありがとう、彼女はそう言ってスーツケースの衣服の隙間に押し込んだ。

 一人暮らしの部屋で入れた紅茶は真空パックの賜物か、十分に香りがよく立った。

 きっと母は今年も手紙を強請る。けれど彼女はどこか意地のような気持ちでそれを送るつもりはなかった。

 無難なものなら。花や菓子。無くなって場所を取らず、もし好みのものでなくても適当に客人に出したり消費の仕方がいくらでもある菓子の方が楽で良い。母も以前そんなことを言っていた。花なんて貰ったって困ると、何かの折に渡された花束の紙袋を覗きながら愚痴っていた。

 彼女はコーヒーの横に置いた小皿から小魚を摘んで一口に噛み砕きつつ、片手間に『母の日 プレゼント』とウェブブラウザの検索バーに打ち込む。案の定、我も我もと様々な広告と共にショッピングサイトの数々がトップに躍り出てきた。

 そういえば母は北海道の店のレーズンサンドが好きだったな、と思い出した。海を渡る分やや送料の値が張るが、致し方ない。変に期待はずれのものを送るより確実な好物を送った方が、小言は少ないだろう。指先でそれをカートに追加し、配送先に実家を指定して決済を完了させる。

 舌の上に小魚の目玉が残っていた。前歯で挟むと、ごりっと小石を噛んだような感触とともに磨り潰された。


『お菓子にした。ちょっとお高いやつ。ねえ、初めて貰ったプレゼントが何か覚えている?』

 ちょうどチョコレート店を物色していた彼女は、そのメッセージを開いて、そう、きっとこんな小さなチョコレートがこんなに立派なお値段なのはプレゼントのためにあるからだろう、と無理矢理失礼な納得を抱いて頷いた。小さなマグカップ一杯分しかないホットチョコレートに札を一枚消費するのは、贈り物以外にはあり得ない。自分のためには買わないものを贈るために存在しているものもあるのよと、彼女の先輩はバレンタインギフトのパンフレットを見ながら笑っていた。

 まだ肌寒い夜もあるが、ホットチョコレートには時期が過ぎている。仕事から帰ってきてから食べるならアルコール入りの方がきっと楽しみも増える。彼女はチョコレートボンボンが三つ入った箱を指した。

 あまりに小さな箱に大きすぎる紙袋はすかすかで、少々拍子抜けしながら彼女は目についたコンビニに入った。空腹がすぎて家まで何も食べずにいられない。ナッツとホットの紅茶を買って、少し行儀が悪いことを誰にともなく気まずく思いながら、足を止めずに紅茶を煽りナッツを少し齧った。ちょうどチョコレートの紙袋の隙間を埋める買い物ができた。

 駅で電車を待ちながら、彼女は初めて貰ったプレゼントを思い出そうと記憶を巡らせる。まずいちばんに思いついたのは、叔父がくれた絵本だった。不思議の国のアリスの少し分厚く、幼稚園児の膝からはみ出すような大きな本。それからタッチが独特で妙に印象に残っているピーマンの本。いや虫歯の本だったか。どちらにせよ、言うことを守らないとこうなりますよ、という教訓にまつわる本だった気がする。

 けれども更に古い記憶がある。彼女自身はそれが何歳のとき、という認識すらなかったが、後から母に聞いた話で二歳だったと判明した。

 薄暗い部屋の中で、お姉さんが「どっちがいい?」と小さなぬいぐるみと塗り絵を差し出している。幼い彼女は強欲にも「どっちも!」と言った。お姉さんは笑いながら両方を彼女の小さくふくふくした手に握らせてくれた。

 それは彼女が二歳のとき、母方の親戚――母と祖父、叔母、祖父の再婚した妻――そろっての海外旅行へのフライト中のことだった。お姉さんはキャビンアテンダントで、ぬいぐるみと塗り絵は幼児用の無料サービスだったらしい。海外旅行そのもののことはほとんど覚えていないのに、そんな些末なことだけはやけにはっきりと思い返せるものだから、人の記憶のトリガーとは不思議なものだ。

 彼女が大学生になった時に一人暮らしを始めたので、家族旅行にももう数年行っていない。母の日の贈り物は旅行券でもよかったかもしれない。

 彼女は少し懐かしい気持ちで返信を打った。


『コアラの小さなぬいぐるみと塗り絵』

 サプリメントのジッパーの口が彼女の爪を何度も弾く。セルフネイルのマニキュアは爪先から剥がれ始めていてみっともない。一度落とすか、塗り足しをしなければ、と彼女はため息をついた。彼女の今のお気に入りのマニキュアは、メッセージの送り主が勧めてくれたブランドのものだった。発色も持ちも良く、むらになりにくい。まるで公式の回し者のような宣伝文句に少し笑ったが、実際に言われた通りの効果だった。

 生理中は鉄分が不足している。ようやく開いた袋から黒いサプリメント錠剤を二つ取り出し、水道水で流し込む。カフェインは良くないと言われても、コーヒーを飲まないとどうにもやる気が出ず、やはり彼女はフィルターにコーヒー粉をセットした。

 電子ポットがすぐにしゅうしゅうと熱い蒸気を吐き始める。換気扇の下で煙草に火をつけて、メンソール味の煙を吸い込んだ。ニコチン中毒にはなりたくないというみみっちさから、葉巻のように口の中に含むだけですぐに濃いままの紫煙を吐き出す。立ち上る煙の筋を目で追い、シンク上の小さな蛍光灯が切れかけて明滅していることに気が付いた。

 どうしてコアラだったのだろう。オーストラリア旅行に行った友人がくれた、指に手足を絡ませられる定番土産と言って良いだろうマスコットを思い出す。小さな割に黒い爪がやたらとんがっていて、指の腹に食い込むとなかなか痛かった。つぶらな瞳は作り物でも愛らしい。むしろ世の中は作り物の方が人間に優しくできている。人間の理想に沿うように作られているのだから当然だ。ままならないのは意思のある生き物の方だ。

 沸騰した湯がポットの中でくぐもった声で騒いでいる。

 取り上げたポットをフィルターに注ぎ、黒い粉がこんもりと熱気で膨らむのを暫く眺めてから、再度湯を落とした。煙草とコーヒーの香りが混じり合う。メンソールにコーヒーは合わないことを思い出し、彼女は灰を落としてからコーヒーの前に口をゆすぐべく水道の蛇口を捻った。何の苦労もなく当然のように綺麗な水道水を飲める環境を幸せだと、唐突に思った。


 ◇ ◇ ◇


 会社のトイレは白い。比較的建築年数が浅いオフィスビルは、女子トイレに化粧直しや歯磨用の洗面台まで備えていた。白い床に白い壁、白い洗面台にライトの光も白。病室よりも白に統一された空間は清潔感を脅迫めいた観念でもって迫ってくる。

 昼食後、ばらばらと歯磨きや化粧直しに女たちの波が途切れることなく出たり入ったりして、さまざまな香水が入り混じって香りの道を作っていた。彼女も波の雫の一つに紛れ込んで、白い洗面台の前にヒールを鳴らして立ちはだかる。携帯用歯ブラシに付属していた小さな歯磨き粉は使い切ってしまい、一般家庭用の大きなチューブを持ち歩かねばならないのが不便だった。

 歯の隙間に潜り込んだスジ肉をブラシでほじくり出そうと奮闘する彼女の横で、違う女がぱんぱんに膨れた化粧ポーチを漁っている。奥の方まで指を差し込んで、格闘の末取り出された口紅を女はぐりぐりと唇へ押し付けた。くすんだ肌色に近かった唇が一気に赤く染まった。まるで皮を剥かれて滲んだ血のよう、と彼女はそれを横目に見ながら歯ブラシを動かし続ける。スジ肉は固い。

 女が立っていたところへ別の女が入れ替わりに立ち、じっくりと鏡を覗き込んでいる。整えられた爪は一分の隙もなくシルバーに塗り固められていた。映画で見た宇宙人のスーツのようだと彼女は思った。

 入れ替わり立ち替わり女たちは化粧を直し、戦闘態勢を整え、ヒールを鳴らして出撃してゆく。彼女にもそろそろデスクに戻る時間が迫っていた。異物を挟んだままの違和感は諦め、口をゆすぎ、同じく整えられた空調のによって乾燥した頬や、食事で剥がれた口紅を塗り直した。

 曇り無く磨かれた鏡の中の女をじっと見る。

 冷蔵庫の中の母の首を思った。


 ◇ ◇ ◇


 最初は私自身の気持ちの整理のために始めたことでした。

 フリーのメールアドレスを二つ作って、交流型のSNSに別々のアカウントを作りました。少しずつそれぞれのアカウントに個人的な書き込みを続けて育てたところで、お互いのアカウントを見つけたように偶然を装ってフォローし合う。誰も見ていないのにどうしてそんな回りくどいことをしたのか? なに言ってるんですか、両方のアカウントはお互い同士のフォロワーだって少しとはいえ持っていたんですから、不自然な動きは見せたくないんですよ。

 たかがインターネット上の顔が見えない交流で何をそんなに気張ることがあるのか? まあ確かに、退会ボタン一つで消えちゃうなんとも虚しい関係性かもしれませんけど、それが魅力なのかもしれないじゃないですか。あと多分そこまで深く考えてませんよ、きっと多くの人はね。実際に会って現実世界の交流を築いてる人だっていますから、一概には言えませんけど。とりあえず私は、別人として作ったのだから中途半端なことをして違和を残したくなかったんです。リアリティって大事ですから。

 片方のアカウントは毒親の母の束縛に未だに逃れられず、現実での干渉や過去を思い出してはいつまでもどつぼの恨みにぐるぐる呑まれちゃう私。

 もう一つのアカウントは、優しい母に育てられ、時に厳しいこともあったけどそのおかげで今はそれなりに恵まれた人生を送り、恩を返すべく親孝行をしたいと思っている私。

 両方嘘をついていない私です。正反対の側面を持ち合わせていて、不器用なものですから、うまくブレンドすることができなくて段々しんどくなったんです。大学まで行かせてくれた親を憎んではいません。感謝もしています。殺したいかと問われればいいえと答えましょう。だけどお母さん大好きだよと心の底から微笑むことはできない。でも幸せな記憶もある。真逆のことを喚き続ける私の内面と、娘と仲良くしたい、あんなに大切に育ててやったのよ、私はあなたがとっても大好きでとっても大事なのよと、じりじりと追い詰めてくる母。歯軋りしたい思いでした。世間だってそう、家族は良いもので、親は大事にしなければならないと、実家に帰りたくないと零そうものならば半笑いで「なんで?」と馬鹿にしたように無神経に尋ねる上司がいる。結婚なんて私には不和を招く極小の宗教国家で、子供を作ろうものならネグレクトか虐待死させる未来が見えている。なのに「結婚は良いものだよ」って常識の顔をして押し付けてくる。良い人たちだから善意なんです、それは。それ故に反吐が出ました。

 だから逃がし場所を作ろうとしたんです。それぞれに私の思いを吐き出して、対面させて話し合わせれば、いつかお互いに理解し合えるポイントを掴めるんじゃないかと。そこに立ってようやく私は母にまともに向き合えるんじゃないかと。

 でも溝は広がるばかりでした。私の見当違いでした。当たり前ですよね、お互い真逆なんですから。

 ああこれは自分とは違う存在なんだってことをメッセージが一つ増えるたびに実感して、少しも理解ることなんてできないんだと思ってしまうんです。

 たとえば、母が遊園地に遊びに連れて行ってくれたことがありました。でも反面、私が苦手な絶叫マシーンに母は乗りたがって、私が泣いて嫌がるとじゃあ今すぐ帰ろうもう二度とどこにも遊びに連れていってやらないから、そう不貞腐れて踵を返す母に、私はまた取りすがってごめんなさい乗りますと、懇願し、緊張で痛む腹を押さえながら、楽しそうに遊園地を満喫する母の隣で地獄行きのような思いで長い順番を待っていたんです。そして園内や帰り際に、母は私に「楽しかった?」と訊くのです。「楽しかった。連れてきてくれてありがとうございます」そう答えないと不機嫌になるから、私は模範解答を口にします。母は良い母として満足し、帰宅する。たかが絶叫マシーンで大袈裟だと笑いますか。そうでしょうね。もちろん私が楽しめるアトラクションだってあるわけですから、楽しかったというのも嘘ではありません。でもお陰様で。テーマパークに一切魅力を感じなくなりました。母は未だに行きたがっていたようですがね。

 母は幼少の頃に実母から虐待を受けていたようです。その実母は母が小学生の頃に出ていって、父親は無職で事故の被害者になったときの賠償金で日々生活していたとか。母は祖母――私にあたる曾祖母です――から家事を教わり、年の離れた妹の面倒を見て、子供ながら家庭のことを一人で頑張って回していたそうです。母は苦労した子供時代を送ったのです。私はそれを何度も聞かされました。出ていった実母が早々に亡くなったということも、父親がきちんと親の義務を果たさず病院にも連れていってくれなかったと。苦労した母に比べて私が如何に恵まれた環境にあり、母親が出ていったことに対するショックをつらつらと語りました。

 母のあれはきっと免罪符だったのですね。母は母自身が私に対して感情を上手く処理できていない自覚はあったのでしょう。首を絞めたり包丁を持ち出したり、小さかった私を抱えて階段から落とそうとしたりしたので、当然と言えばそうかもしれませんが。まだ罪悪感を抱いてはいたのでしょうか。でも同時に、きっと母は母自身を許したかったのですね。自分を正当化したかったのでしょう。こんなに頑張って生きてきた私が間違っているはずがない、私には母親がいなかったから正しく母親ができていなくても仕方ない、と。あの人も救ってくれる場所を探していたのでしょう。そして見つけた私の父という味方を傍に、より自信を肥大化させていった。

 中高の頃、家庭は崩壊していました。私がいるからです。私の行動全てが母を苛つかせ、毎日のように怒鳴られ離婚を示され、しかし父は母を愛していたので離婚を絶対に認めませんでした。私はもはや別居しようがどうでもいいとすら思っていましたが、そこは様式美です。出て行かないでと泣いて縋ることで母は満足するので、馬鹿みたいに毎回土下座して頼み込んでいました。私が追いかけないと更に不機嫌になるのですから、つまりは構ってほしかったのですね。父はお前のせいだ、お前が出ていけと私を蹴り上げました。そうすると間に母が入ってきて、やめて、この子にはどうしようもないんだから、と言います。良き母の見本のつもりなのでしょうか。悲劇のヒロインなのでしょうか。家庭に私の味方はいませんでした。だから大学は無理矢理家から遠いところを選んで、反対を押し切り家を飛び出しました。とはいえ在学中は家賃を持ってもらったりと結局甘やかされていたので、私自身もほとほと甘ちゃんの箱入り娘です。

 社会人になって、ついに親から金の支援を受けずに生きていけるようになって、やっと独立できたと思いました。これで私は親を頼らずに生きていける。今まで受けた恩は返さねばならないけれど、ようやく鎖が一つ切れた思いでした。

 年末の帰省を渋り、二日間程度のみの滞在を提案した私を母は親不孝者と罵りました。親に元気な顔を見せるのが子供の義務だと言い張りました。私がいるからあの家はどうしようもなかったというのに。一家心中手前の崖っぷちだったというのに。

 私に孫を見せてくれと、結婚を楽しみにしていると言う母。でも母は何度も私を殺そうとした。お前も子供を生むときはよく考えろと、小学生の私に馬鹿にしたように言い放ちました。数年経ち、私が大学生になり帰省した時に、ママだって帝王切開で痛い思いして頑張ったんだから孫を見せてよと、私に言いました。絶句しました。成人式も、卒業式も、私が晴れ着を着ることを無駄と切り捨てたのに、子供の義務として孫を見せろと言うのですか。もしかしたら、あんまりに子供が出来損ないだったので孫で埋めようとしたのかもしれませんね。

 そういう風に、片方が幸せを語る裏に、もう片方が感じた毒がある。

 私たちはどうしたって相容れられないのでした。

 私は母が好きで嫌いだったのです。それはもうどうしようもない事実だったのです。

 段々虚しくなっていって、私は幸せを語る方のアカウントを開くことが少なくなりました。もう片方からメッセージを送ることも少なくなりました。

 わかりますか、刑事さん。私、ちゃんとそれぞれが自分だって分かっているんです。パスワードだって私しか知らない、誕生日とかわかりやすいものじゃないものを使っているんです。だから二人とも私でなければあり得ない。

 私は二重人格じゃない。乖離性でもない。私は私の記憶が途切れたことがないんです。私はずっと私なんです本当なんです。買った覚えのないものが家に届いたことも、朝起きたら自分の手首が血塗れだったなんてことも一度もない。

 なのに、どうして、私の家の冷蔵庫に母の首が入っているんですか。

 私は見切り品の熟れすぎたアボカドを仕舞おうと、扉を開けただけなんです。

 どうして母が、私を恨みがましい目で睨みつけてくるのですか。

 どうしてあの人、私が何も伝えないうちに死んじゃったんですか。

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