飛翔

野原 杏

第1話 パンの香り

 小鳥ことりの部屋は、”ベッカライ リヒト”が小麦粉や製粉前のライ麦を収めている倉庫の二階にある。朝になると、倉庫の扉がきしむ音、香ばしい麦の香り、パンを焼くために忙しく動く人の気配で、小鳥は目覚める。

 ゆっくりと身体を起こすと、黄色い生地に白い小さな花を散らした、可愛らしい薄い夏掛けが滑り落ちた。既にうっすらと汗ばんだ額をおさえながら、小鳥は古い型の赤い目覚まし時計に目をやった。

(まだ五時か…)

 夏は、朝が来るのがいつもに増して早い。白いレースのカーテンから差し込む日差しの眩しさに目を細めながら、小鳥は手早く着替えを済ませた。

 寝乱れたベッドを整え、窓を開ける。すると、眼下に広がる庭で花に水をやっていた少女が、笑いながら手を振った。長い金髪がきらきらと輝いた。

「小鳥、おはよう!もうすぐ朝ごはんだよー!」

「おはよう…今降りてくね…」

 ご近所一帯まで聞こえそうな、元気いっぱいの少女の声とは反対に、小鳥の声は消え入るように小さい。言葉がちゃんと届いたのかどうか、小鳥は危ぶんだが、少女はにっこり笑って頷いてくれた。

 ノースリーブの白いワンピースに薄い水色のカーディガンを羽織った小鳥は、母屋の台所へ行く。ちょうど水やりを終えた少女が、トースターにパンを入れている所だった。小鳥に気づくと、彼女は明るく声をかけた。

「小鳥、紅茶を淹れてくれる?パン窯の方がひと段落したら、母さんも来るから」

 シンクの手前のスペースには、その日の時間帯によって作業台にも食卓にもなる大きな円卓が置かれている。その上に、カラフルなランチョンマットが三枚敷かれてあり、深紅のジャムが透けて見えるガラス瓶や、陶器の箱に入ったバターや、籠に盛った果物が用意されていた。

(色の配置がかんぺき)

 小鳥の頬が自然に緩む。少しだけ軽くなった足取りで、小鳥は少女の隣へ行き、ずんぐりしたやかんでお湯を沸かし始めた。

 湯気の立つ紅茶、できたての目玉焼き、自家製ヨーグルトが食卓に並ぶ頃、通りに面したパン屋と繋がっている扉がばたんと開いて、息を切らせながら白いエプロンの女性が入ってきた。

「ソフィア、小鳥、おはよう!ご飯冷めちゃってない?間に合った?」

「グーテンモルゲン、母さん。ばっちり間に合ったわよ」

「おはようございます、みどりさん」

 三人は挨拶を交わし、食事の席に着いた。お店で一番人気のパン、カンパーニュのようにふっくらどっしりとしている翠さんが、よいしょ、と呟きながら腰かけるのを見ると、小鳥はいつも大きなテディベアを連想してしまう。

「では、今日の糧に感謝して、いただきます!」

 翠さんの溌溂とした声が、光溢れる夏の台所に響きわたった。


 明治時代から外国との貿易で栄え、今はレトロな西欧風の建物が多いおしゃれな観光地として人気を集める港町、あかね。”ベッカライ リヒト”は、この街の海を見晴らす坂の途中にあるパン屋で、黒パン、ライ麦パン、プレッツェルなど、ドイツ風のパンを主に売っている。二十年前にこのお店を始めた、ドイツ人のリヒト・シュタイナーさんが亡くなってからは、妻の翠さんが一人で切り盛りしていた。香ばしい手作りパンと、翠さんの朗らかで温かな人柄に惹かれ、近所でも評判のベーカリーだ。

 小鳥は、一か月前から、ご近所に愛されているこのベーカリーに居候している。

(パンの香りが、いい匂い、って思えるのって、素敵だ)

 小さくちぎったパンにバターを薄く塗り、少しずつ口に運びながら、小鳥はひっそりと笑った。

 ふいに、頬をむにっとつままれ、小鳥は驚いて顔を上げた。ソフィアが呆れたように笑っている。

「小鳥ったら、またぼーっとしている。寝ぼけてたの?ちゃんと眠れてる?今日は私、吹奏楽部の練習で朝から夕方まで学校に行くけど、小鳥はどうするって聞いたんだけど」

「あ、ごめんなさい…私は、いつも通りスケッチに行こうかと」

「オーケー、分かった。夕方には帰るんだよ。私の携帯の番号、分かるよね?道に迷ったら電話して。この街、まだあちこちに公衆電話あるから」

 さばさばと言って、ソフィアは綺麗に空になったお皿を重ねて立ち上がった。小鳥もあとに続く。こちらのお皿には、まだトーストも目玉焼きも半分以上残っていたが、それを責める人はここにはいなかった。

 手早く洗い物を済ませて出て行こうとする二人の少女に、ゆったりとコーヒーを飲んでいた翠さんが「いってらっしゃい」と声をかける。優しい優しい声だった。

 ソフィアの部屋は母屋にあるので、台所を出た所で彼女は立ち止まり、小鳥に向き直った。

「それで、今日はどこへ行くの?港の方角なら、途中まで一緒に行かない?」

「えっと…お屋敷街の方へ行こうと思ってる」

「うん。それじゃあ、気をつけてね」

 ソフィアは微笑んで、くしゃりと小鳥の頭を撫でてくれた。小鳥ははにかんで俯き、されるがままになっていた。




 夏の日差しは暑いけれど、ソフィアのお下がりのつばの広い麦わら帽子のおかげで、小鳥は遠くまでも歩いて行ける。海に背を向けて坂を登りきり、大通りから一本外れた道をしばらく歩くと、古い洋館が並ぶ住宅街に出る。文明開化から間もない頃、外交官や大使たちが祖国を懐かしみ、その建築を模して造り上げたという屋敷や庭が、今も大切に手入れされながら住まわれ続けているのだ。

(このあたりは、人通りが少なくて落ち着く。港も素敵な風景がたくさんあるけど、夏休みで人がだいぶ増えてきたから、すぐ疲れてしまう)

 花から花へと彷徨う蝶のように、小鳥は気になる外観の家を横目で覗きながら歩いてゆく。時折、薄い肩から大きなトートバッグがずりおちそうになる。中に入っているのは、財布とハンカチとスケッチブックと色鉛筆とレターセットと切手だ。

 赤茶色の塀。薔薇が咲く庭。白やクリーム色の壁に、青や緑の屋根。蔦を這わせた扉。レースのカーテンがたなびく張り出し窓。絵本や雑誌でしか見たことがないような、カラフルで美しい家をいくつも通り過ぎ、やや寂れた雰囲気の小路の行き止まりまで来たところで、小鳥は足をとめた。そこには、背の高い木々と草ぼうぼうの庭に抱きこまれるようにひっそりと佇む、古い木造の家があった。

 一陣の強い風が吹き、木々の葉っぱが呻くようなざわざわという音を立てた。麦藁帽子をおさえ、小鳥は一つ深呼吸をする。そして、「売り家」の札がかかったぼろぼろの垣根をするりと潜り抜けて、庭へと入って行った。

 長いこと手入れされていないのが一目瞭然の、伸び放題で絡んだ枝や小鳥の背丈ほどもある草の隙間にもぐりこむと、小鳥はなぜかほっとする。濃い木陰、湿った空気、ひんやりとした風が、心を鎮めてくれた。

(好きだけれど。感謝しているけど。あのおうちも、あの人たちも、私にはまぶしすぎる時があるから)

 苔に覆われた石のテラスにたどり着くと、小鳥はそっと扉を引っ張った。さび付いた南京錠がぶら下がっている扉は、きしんだ音を立てて少しだけ開くと、渡された鎖に阻まれて止まる。けれど、痩せている小鳥が身体を滑り込ませるには、それで充分だった。

 家具は全て運び出された後なのだろう、元はリビングか何かだったとおぼしき部屋は、今は暗く寒々しいばかりだった。木箱や資材のようなものが、所々に無造作に積まれている。小鳥はその陰にハンカチを敷くと、ほっと息をついて膝を抱えた。破れた窓からわずかに見える空を、ぼんやりと見上げる。その顔からは一切の感情が剥がれ落ち、人形のように虚ろになっていた。

 ”ベッカライ リヒト”を営む母娘は、ここへ来たばかりの頃、目も合わせず離そうともしない小鳥を、ただそっとしておいてくれた。毎日、小鳥はスケッチブックと色鉛筆を抱えて、街を幽霊のようにさ迷い歩いて過ごした。古い建物をスケッチしていると、悠久の時の流れにちっぽけな自分がくるみこまれるように感じた。港で潮風にふかれていると、限りなく広い海へと心が解放されていくように感じた。そうして足に痛みを覚える頃、店に戻ると、優しい笑みを浮かべた翠さんと、小鳥の反応を一切気にせず明るく話しかけ続けてくれるソフィアと、素朴で心のこもった温かい食事が待っていてくれた。そうして小鳥の心は、少しずつほぐれていったのだった。

 しばらく膝を抱えてうとうとしていた小鳥は、バサバサと梢から鳥が飛び立つ音に我に返った。

(そうだ、今日は叔母さんに手紙を書くんだった)

 レターセットと鉛筆を取り出し、膝に乗せる。薄暗い室内でも、よく晴れた真昼であれば、なんとか読んだり書いたりすることはできた。


「おばさんへ

 先日はお手紙ありがとうございました。高校の編入手続きの書類は、言われた通り翠さんに渡しました。翠さんもソフィアも、とても親切です。私は、ご飯をちゃんと食べて、外を歩いて体力をつけています。あかね野は、綺麗な街です。今の所、薬には頼っていません。おばさんも、お身体に気をつけて、お仕事頑張ってください」


 書き終えると、小鳥は二度読み返した。便箋一枚にも満たなかった。

(この街に来て初めての手紙なのに、短すぎる?そっけない?こんなんでは、また心配かけてしまう…?)

 けれど、これ以上は書くことを思いつかなかった。小鳥は諦めて便箋を折りたたむとバッグにしまい、代わりにスケッチブックを取り出した。

 ぺらり、とめくる。何枚も何枚も、幻想的な絵が出てくる。ここへ来てから毎日描いているから、その量はかなりのものになる。ほとんど全てが小鳥の空想の景色だから、どこにいても、たとえ廃墟になった家の中でも、描くことができる。

 それからしばらく、小鳥は全てを忘れてスケッチに没頭した。




 いつしか日は傾きかけていた。目の前がかすんできてようやく、小鳥は絵から目を離した。生ぬるい風が吹き込んでくる。慌ててバッグを探り、腕時計を出して時間を確認すると、午後四時を少し過ぎたところだった。

(やだ、もうこんな時間?急いで戻らなきゃ。ソフィアが帰ってきてしまう)

 固まった足を伸ばし、そろそろと立ち上がろうとした小鳥は、床をよぎる影に凍りついた。

 ガタンッと大きな音を立て、ガラスのはまっていない窓枠が開く。長身の若い男が、ひらりと部屋の中に降り立つのを、小鳥は息もできずに見つめる。歯の根が合わず、かちかちと音を立てる。激しく胸を打ち叩く心臓の上に、スケッチブックをきつくおしつける。

(誰…?)

 逆光になっているせいで、男の顔はよく見えない。辺りを伺うような仕草を見せた後、小鳥には気づかずに、男は無造作に部屋の中央へ進み出て軽く咳払いした。

 次の瞬間、歌声が響きわたった。

「緑なす 森の木蔭に

 我と坐し 楽しき歌を

 鳥のに 合わせ歌わん

 人あらば 来たれや きたれ いざ 来れ

 このかたきなく あだなき国に

 仇なすは ただ冬空の 寒きのみ」

 澄んで光る川のせせらぎのように、歌は流れてゆく。よくとおって、張りのある、美しい声だった。歌に関しては素人の小鳥にも、それがつややかに磨き抜かれ鍛え上げられた声であると分かる。

(すごい、上手…)

 歌い終えると、男は喉の調子を確かめるように咳払いし、いくつか音程を出す。ほんのわずか落ち着いてきた小鳥の目は、後頭部で無造作に束ねられた長髪と、学生服らしき白いシャツと黒いスラックスをとらえた。おそらく、小鳥とさほど歳の離れていない、少年だ。

 やがて彼は、長い手足を大仰に動かしながら、早口で喋り始めた。

「私に信じろですって!それよりは、あなたの愛している人に信じてもらうほうがまだ易しいでしょうよ。大丈夫、なかなか口には出さないでしょうが、内心早くも信じたがっているものだ、とかく女というものはそうして良心に嘘の鎧を着せたがるのでね…だが、本当に恋い焦がれているのですか、あの詩に歌っている程に?恋は狂気に過ぎない、だから、恋をしている人間は狂人と同様、暗い小屋に閉じ籠めて鞭をくれてやるに限る…」

(何、なに、なんなのこの人?!)

 抑揚をたっぷりつけた古めかしい言葉の奔流に、小鳥は呆然とするしかない。常識と理性のある人間のすることとは思えない。だが、彼の操る言葉は魔法のように美しく、流麗で、人を惹きつける何かがあった。

 知らず知らずのうちに、小鳥の手から力が抜ける。スケッチブックが滑り落ち、床にぶつかって音を立てた。途端に少年が空中に向かって喋るのをやめ、野生動物じみた素早さで振り返った。

「そこに誰かいるのか?!」

 先程までの甘さと艶めかしさなど欠片もない、低く鋭い声で怒鳴った少年の目と、すくみ上がった小鳥の目が合った。

 切れ長で端の吊り上がった目が、強く小鳥を見つめる。そこに宿る火のような意志の強さが、小鳥を貫く。だが次の瞬間、少年の眼差しが揺らぎ、驚きと戸惑いがそれにとって変わった。

「お、女の子…?」

 間の抜けた声で彼が呟いた時、小鳥の呪縛がようやく解けた。スケッチブックも色鉛筆もトートバッグも全て置き去りにしたまま、小鳥は駆け出す。テラスへ続く扉をくぐり、庭を駆け抜け、柵を飛び越え、お屋敷街を走っていく。一瞬だけ、背後に呼び止める声を聞いた気がしたが、小鳥は決して足をとめなかった。




 ”ベッカライ リヒト”では、翠さんが忙しそうに店番をしていた。パンを棚に並べるソフィアの姿も見える。小鳥は二人に気づかれないよう静かに裏庭へ回り、自室へと上がった。

 ベッドにうつ伏せに倒れこみ、指一本動かすことさえできずに、小鳥はしばらくぐっとりとしていた。こんなに全力で走ったのはいつぶりだか、思い出せない。

(私の場所…私だけの、秘密の場所だったのに。あんな、変な人に会ってしまうなんて。ああでも、元々空き家だから、誰かが入ってきてもおかしくなかったんだ…そもそも、私だって侵入者なんだから。私が悪いんだ)

 胸の奥で嵐が荒れ狂う。小鳥は熱い固まりを飲み下し、あえぐように呼吸をする。喉がひゅうひゅうと、壊れた笛のような音を立てた。

 それからどのくらい経ったのだろう。とんとん、と階段を上がる軽快な足音がして、ソフィアの声がした。

「小鳥?帰ってるの?」

 くの字に身体を丸めていた小鳥は、かすれた声で返事をした。

「どうしたの、電気も点けないで。そろそろ夕ご飯だから呼びに来たんだけど…具合悪いの?」

 ソフィアの声が訝しげに、だんだん不安そうになる。それを察し、小鳥はなんとか大きな声を出した。

「大丈夫。でも、今日はご飯いらない。ソフィア、ごめんね」

「…そっか。分かった。明日の朝は、ちゃんと台所に来てね?」

「うん、約束する」

 小鳥がはっきりと返事をすると、しばらくしてソフィアの足音は遠ざかった。とんとん、と階段を下りていく足音は、心なしか力なく緩やかになっていた。

 小鳥はきつく目を閉じ、唇を噛みしめる。頭の中ではまだ歌声が響き、闇の中から鋭い眼差しが燃えるように小鳥をねめつけてくる。怖くてたまらなかった。

 けれど、ただ一つ、小鳥には分かっていることがあった。

(スケッチブック。他はどうなってもいいけど、あれだけは、取りに戻らなきゃ…)

 小鳥はのろのろと起き上がり、疲れ切った表情で窓の外を見やる。夏の遅い夕暮れの光が金糸のように黒い木の葉のシルエットを縁どっていたが、その美しさも、今の小鳥の心には届かなかった。

 

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