黒い月

鼓ブリキ

 月を見るたびに思い出すのは祖母の事だ。幼い私は祖母の腕に抱かれて縁側に座っていた。

「お月さまが時々まんまるじゃなくなる時があるだろう。あれは、黒い月の仕業なんだ。真っ暗な夜の空だから、黒い方の月はよく見えなくなる。黒い月は恨めしいんだよ。お日さまにあてられてピカピカ光ってるお月さまがさ。だから意地悪をして、お月さまを隠してしまう。お月さまのない夜は気をつけるんだよ。お祖父ちゃんも、お月さまのない夜におかしくなってしまって、どこへ行ったか分からないんだから」

「黒いお月さまは、昼間は何処にいるの」その時の私は祖母の迷信を疑う程の知識を持ち得なかった。

「昼の間はお山の陰に隠れているのさ。日が暮れたら昇って来て、金色のお月さまに意地悪をするんだ」月のない夜に気を付けろ、彼女は口を酸っぱくして繰り返した。

 私は幼少期のほとんどを祖母の下で過ごした。父は仕事で忙しいからと、滅多に自宅に寄り付かなかった。母と過ごした夜は数える程、派手な化粧を施して私を祖母の家に置いて行くようになったのはいつからか。

「お仕事なの。礼ちゃん、いい子で待っててね」真っ赤な口紅が弧を描くのをぼんやりと眺めていた。

 母が本当に仕事をしていたのかは疑わしい。灰色のマンションには時々、父よりも若く見える男が母に会いにやって来ていた。「仕事仲間よ」と言っていたが、どうだか。しかし、私はそれを敢えて尋ねたりはしなかった。いい子で待っててね、母だけでなく父も家を出る時にそう言った。つまり、私は余計な事はせず大人しく家にいろと、それだけを望まれていたのだ。どうしてわざわざそれに逆らう理由があろう。今の生活が壊れてしまうのが怖かった? 多分ね。ある時テレビを見ていたら、サーカスの映像が映った事がある。ごてごてした服装と、母のそれより数段上のけばけばしいメイクのピエロが天井ぎりぎりに渡された綱の上を歩いていた。「あ、これだ」そう思ったか、あるいは口に出していたかもしれない。綱渡り、それが私達の生活なのだ。すとんと胸に理解が落ちた。

 母が失踪したのは私が高校に進学する直前だった。固く閉じていた桜の蕾が膨らんでいくのを待たずに、母は忽然と姿を消した。満月の夜だった。祖母が死んだのはもっと前、最期の方は何ヵ月もベッドで昏睡状態だった。

 涙は流れなかった。祖母の死にも、母の失踪にも。





「ねえねえ、夏休みなんだけどさあ、どこか行きたいトコとかない? 遊びに行こうよ」夏物のセーラー服にも慣れて来た時、そういったのは中学からの同級生、さかきしおんだった。

「えー、と、例えば?」私が訊き返すと彼女は顎に手を当てた。

「うーん、遊園地とかはこの時期はダメかもね。炎天下で待ち時間二時間とか熱中症になっちゃうし。暑くないトコがいいかなあ。軽井沢とか。礼のうちで軽井沢に別荘あったりしない?」

「さすがにありませんよ」私は苦笑した。そこで、ふと思いついた事があった。

「軽井沢じゃないですけど、母方の実家は田舎の山の中にありますね。木陰は結構涼しいですよ」私は祖母の家を思い出した。掃除は必要だろうが、電子機器に囲まれた暮らしを忘れて過ごす一時というのも乙なものかもしれない。

「あ、じゃあそこに泊まりに行くって事で。いいよねー、永理也?」彼女は私の隣に座る男子生徒に声を掛けた。江崎永理也えざきえりや、彼は私達のどちらかが声を掛けなければずっと一人で過ごしていた。

「……いいのかよ、俺が行って」長い前髪とスクエアフレームの眼鏡越しに、じろりとこちらに目を向ける。濁った目は、しかし彼の常なのだ。

「何か問題でも?」私は何故か母の事を思い出していた。厚化粧で白くなった顔、真っ赤な唇は今にも舌なめずりをしそう。

「つまりだな、女の中に男が行くってのは――」

「永理也はそんな事しないっしょ?」

「そんな度胸はない」

「きっぱり言う事でもないんだよなあ。でもそれならいいでしょ? 寝る部屋分けるくらいの間取りはあるでしょ、多分」しおんは物怖じせずに男子とも会話が出来る。……少し、羨ましい。私ときたら、身近に男がほとんどいないも同然の人生だったのだ。

「ありますよ」間取りについて、私は口を挟んだ。少なくともそれは間違いない。小学校を卒業してこのS市に越して来るまで、あの家は私の実家も同然だったのだから。

「ほら、大丈夫だよ。荷物持ち、よろしくね。日程決まったらメールするから」

「そんなに力があるわけじゃないんだが……」江崎君は憮然としてそう言った。





〈お泊りいつにしようか?〉というメールを前に、私は考え込んでいた。正直、いつだって構わない。強いて挙げるとすればお盆を避けるくらいだろうか。私は課題を持って行く気でいたし、他の用事もない。父は月に一度、口座に生活費を振り込むだけの存在と化していた。母がいなくなってから、色々と事情が変わったらしい。私の家の事業は母方のもので、入り婿たる父は一族の末席に過ぎないとか、なんとか。月、そうだ、月齢を調べなくては。どうしてそう思ったのかは分からないけど、この時はその考えに憑りつかれたような心地だった。新月を避けなくちゃ、は危険だ。案外調べ物はすんなり終わった。私は満月の前後の日程をしおんに送った。

 それで決まった。日程も、運命も。





 祖母の実家は数年振りに訪れても特に寂れた様子もなく建っていた。違いと言えば、積もった埃くらい。私達がまずしたのは掃除だった。電車と新幹線、さらにはタクシーを乗り継いで来た疲れを癒す暇もない。それでも、他愛ない会話をしながらする掃除はそれ程嫌でもなかった。

「ねえ、次は何しよっか」しおんが持って来たペットボトルのジュースを飲み干して言った。

「課題だろ。テレビなんかないし」江崎君は眼鏡を外してタオルで顔を拭っていた。前髪が額に貼り付いている。

「それは夜でもいいでしょ」

「他に何するって言うんだ」

「あ、そういえば」平行線を辿りそうな二人の会話に私は割り込んだ。「蔵を見てみませんか? 何か面白い物があるかも」




 掃除道具を持たされた江崎君は疲れ切った顔をしていた。「また掃除か……」

「必要なトコだけでいいよ。目ぼしい物があれば、ね」しおんは自分のタオルを顔に巻いてマスクの代わりにしていた。

 山の中の一軒家、泥棒が入る事を想定していないのか、蔵には鍵がなかった。しかし私はそこへ入った事がなかった。祖母にきつく止められていたのだ。「大人になったら見せてあげるから」の一点張りだった。

 蔵には雑多なものが詰め込まれ、ちょっとした迷路のような有様だった。持って来た懐中電灯で照らしながら見て回る。一番奥まった所に、高さ一メートルくらいの布に覆われた物体があった。それ自体は地味な物のはずなのに、どうしても中身を見たいという衝動に駆られた。埃が舞うのも構わず覆いを剥ぎ取る。

 偶像がそこにあった。

「礼ー、何かあったー?」私の耳は確かに彼女の声を聞いていた――と思う。その時、私はその偶像に心を奪われていたのだ。ゆったりした衣服を纏った、それは聖母マリアを象っているように見えたが、どこかがおかしい。口元に浮かぶ微笑はどこかいやらしく思える冷ややかさを忍ばせているからだろうか、あるいは足元に並ぶこれは――枯れ木?

 その後、何をして過ごしたのか記憶がない。



 気付くと私は敷布団に横たわっていた。隣に並んだ布団からは寝息が聞こえる。上体を起こして辺りを見れば、だだっ広い和室の真ん中に私としおんが寝ていた。江崎君の姿はない。別の部屋を宛がわれたのだろう。

 そこは私と祖母がかつて寝室として使っていた部屋だった。

 いやに明るい夜だった。今夜は満月のはずだが、それにしたって冬の月夜のように燦然とした光が横溢している。やけに目が冴えて眠れそうにない。私はタオルケットを押しのけて立ち上がった。

 そうだ、あの像。あれはどうなっただろう。まだ蔵の中にあるだろうか。

 玄関まで靴を履きに戻るのも億劫だった私は、素足のまま縁側から庭へ降りた。




 闇に沈む蔵の内部に月明りが差し込み、まるで深海のように中の物を浮かび上がらせていた。私の目当ては唯一つ、あの不気味な、それでいて脳髄から離れない聖母像だ。それは昼間と変わらず最奥に置かれていた。

 夜の闇と月の光のコントラストが、偶像の表情に更なる凄みを与えていた。私はその謎めいた微笑の虜になった。どうして気付かなかったんだろう――この顔はお母さんそっくりだ。派手な格好をして家を出て行く寸前、振り返って私に見せた笑み。お祖母ちゃんもきっと若い頃はこんな感じだったんだろう。どことなく面影があった。

 じゃあ、私は?




 覚束ない足取りで蔵を出た。外は思っていたよりも明るくなかった。黒い雲が急速に集まって、月を遮っていた。

 空を見上げて、あっ、と思わず声を上げた。黒雲が寄り集まって月を塞いでしまう。

 それがなのだ。私には分かる。代々家族を、自らを贄として捧げてきた一族、私が最後の一人。私に流れる血が騒ぐ、早くそちら側へ行こうとねだっている。

 私は喜びでいっぱいだった。浮世を離れ、神の下で全てと一つになれると確信していた。

 厚い雲に向かって手を目一杯伸ばした。それは暗がりにおいて葉を持たぬ枯れ木によく似ていた。















































 私は、幸せになった。

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