★3★ この靄に名付けてはならない。


 ストーブの上に置かれた小鍋から甘いミルクの香りが立ち、そこにルシアが先に淹れておいた濃いめのコーヒーを足す。すると瞬時に甘いミルクの香りに香ばしさが加わり、カフェオレの香りが温室内を満たしていく。


 四月も二十日となり、日中は寒さからだいぶ疎遠になったとは言ってもまだ夕方には少し冷える時もある。そういう日は何も言わなくても、こうしてルシアがカフェオレを二人分煎れてくれた。


 コポコポと目の前に置かれたマグカップに注がれていくカフェオレと、湯気の向こうに見えるルシアの栗色の髪。こちらの視線に気付いて視線を上げたルシアが「はい、熱いから飲む時は気をつけなよ」と鳶色の目を細めて笑う。


 礼を言って受け取ると「どういたしまして」とおどけたように返事をしてから、再び自分の手許にある刺繍の作業に戻った。先週の週末にラシード達と会った際、ラシードの勤める雑貨店に置きたいから、ハンカチに数枚俺達にくれたような刺繍をして欲しいと頼まれたらしい。


 三年生になってから、ここで星詠み神話の原本を読み解いたりするようになったルシアは、煮詰まった時にそれを息抜きの片手間にすると言って引き受けていた。今も見ている前で色とりどりの刺繍糸が、以前見たものとは違う柄を描いていく。


 たまに手を止めてカフェオレを口にしては、また針を持ち。ハンカチを広げてはその出来を確認していく。刺繍は地味な作業だというが、こうして見ている分にはそういう風に感じない。白い布に花や風、水面と次々に現れる模様を見るのは意外と面白いものだ。


 少なくともここで屑の極みともいえるあの男から届く、金の無心がしたためられた手紙を読むよりは、ずっと。結局それは開封する気にもなれず、ストーブの火にくべた。


 その俺の様子を見ていたルシアは、一瞬だけ燃えて灰になる封筒を横目に見て「カフェオレのおかわりが欲しかったら言いなよ」と微笑んだ。何も訊かずにいてくれる親友の存在は、まだ時折痛みを持つ脚の代わりのように。気を抜けば崩れそうになるこの身体を支えてくれた。


 ラシードとベルジアン嬢が卒業してから、放課後の温室はルシアと俺の二人だけが訪れる場所になった。それでもここで部活動らしい活動はしたことがなかったので、やることと言えばこうしてのんびりとお茶をして過ごすことだけだ。


 しかし在籍しているのが二人だけではこの温室をいつ取り上げられるか。先回りするに越したことはないので先日非常に気乗りはしなかったものの、頼めば断れなさそうな人物に顧問を頼み、それにより名前を借りられる幽霊部員も押さえた。


 誰のことかといえば、今回も迷惑をかけることになってしまった不運な令嬢アリシア・ティンバースと、その恋人であるエルネスト・ホーンスの二人だ。だが今回は毛嫌いされていない為か、二人から同時に協力を持ちかけてくれた。きっとこれもルシアの人望のお陰だろう。


 手許の刺繍に視線を落とすルシアを前に、こちらも焼き払った手紙の他に届いていた封筒を開封して中を確認する。差出人は以前屋敷に勤めてくれていた使用人達からだ。


 あの男に勝手に解雇された直後から手紙のやり取りをしていたが、それが冬期休暇の一件以来頻繁に手紙を交わすようになった。見舞いと称して元・執事の彼が“遠縁の親戚”という、嘘の肩書きでステッキを持って現れたあの日から……彼等は俺のような人間に忠誠を誓ってくれている。


 手紙にはそれぞれの近況や、領地に勤めていた当時の金の流れ、あの女狐と新しく入った使用人の男の関係、急な増税に至った経緯、横領に関係した貴族の名などがこと細かにしたためられていた。


 一つ一つは職場の中でも離れた場所で勤務していた為に、まるで欠けたパズルのピースだが、時系列ごとに一列に考えるとその絵がしっかりと見えるようになる。後は公の場で次期当主として衆知されている俺が、その情報を元に一枚の絵を完成させてしまえば良い。


 そんなこの空間に相応しくない暗い思考を巡らせる自分に嫌気がさして、ふと手紙から顔を上げれば、いつの間にか新しいカフェオレが足されたマグカップが湯気を上げている。


 礼を言おうと視線をルシアの方に向けると、その傍らにあの不思議な刺繍を施されたハンカチが積まれていた。視線を落としたまま、気配だけをこちらに向けるルシアに礼を述べようとすると、ルシアは自分のマグカップを指差して「ついでついで」と朗らかに笑う。


 だが最近その緩い微笑みを見るにつけ、迷う自分がいた。ルシアの存在が自分の中で大きくなり過ぎているのではないかと。このままでは何度もアリシアに繰り返した過去のように、俺はいつかルシアまで――……。


 しかしそう思いはしても、自分の領地を、領民を、誰より愛していることを口にして憚らないこの親友から離れることは躊躇われた。


 既に冬期休暇に瀕死である自身の領地を前にして、それでもまだ延命させようとしていた醜い自分の姿をもう見られてしまったのだ。鈍いとはいえ愚かではないルシアならば、あの屋敷内の異常性に気付いただろうに。それでもルシアは何も言わなかった。


 それは単に、膿んだ上級貴族の内情に触れたくないだけだったのかもしれない。しかし都合の良い解釈をすれば、まだ俺に自力で立つ時間があると。そう、信じてくれているような気がした。


 何よりルシアが領地に戻った時に、いつかあの姿の俺を思い出すかもしれない。それは堪えられそうもなかった。どうせ思い出してくれるなら、この空間でこうしてお茶をする姿か、星詠みをした姿を思い出してくれると良い。


 その為にもこの絵がいつ仕上がるかはまだ分からないが、今はこうして水面下で来る完成の日に備えて待つだけだ。


 手紙を片付けて刺繍を刺すルシアの指先を見つめると、そこにはまだあの凍傷になりかけた跡がうっすらと赤茶色く残っている。額の傷跡といい、指先といい、こんなに傷を受けても一緒に行動することを止めない馬鹿を、俺は知らない。


 もしも故郷に帰った時に、ルシアのこの傷の多い身体を理由に貰い手が現れなかったら――……などと、一瞬でも考えた自分を嗤う。


 胸の中に重い靄がかかったような気分になったまま、湯気の立つカフェオレを一口含めば、コーヒーの苦味の後に遅れてくるミルクの甘みが苛立つ心を少しだけ鎮めた。


 ぼんやりと眺める前で刺繍されたハンカチがまた一枚積まれる。だがそのハンカチに施された柄を目にした途端、思わず口をついて「その柄も店に出すのか?」と言葉が零れた。


 そんな言葉をかけられるとは思っていなかったのか、ルシアは少しだけ驚いた表情で作業の手を止める。


「ああ、この柄のこと? うん。この刺繍は柄の種類がそう多くないから、そうしようかな~とは思ってるけど……それがどうしたの?」


 若干困惑したような表情と声音。針を置いた代わりにカフェオレを手にしたルシアが俺の話を聞こうと正面を向いた。俺はといえば視界の端に以前ルシアがくれた物と同じ模様のハンカチを捉えたまま、再び靄がかかりそうな心を煩わしく思う。


「その柄は、出来れば商品には施さないで欲しいというのは駄目だろうか?」


「別に駄目ではないけど……何で? もしかしてこの柄って、王都だと売れなさそうだったりする?」


 キョトンとしながらも至極当然な疑問を口にしたルシアに、大した内容でもないことを口にするのはなかなか勇気がいるものだ。


「そういう訳ではない、が」


「が、どうしたの? あ、まさかこの柄が若い人に受けないとか? もしもそうだったら怒らないからちゃんと言ってよ。ラシード達に刺した柄も刺繍しちゃったからさ、一度全部解いてデザインを見直さないとだし」


 根が真面目なルシアは表情を曇らせて、無責任な俺の待ったに過敏ともいえる反応を見せる。……これで一層言い出し辛くなった。しかし何とかそれは思い留まらせようと咄嗟に「止めるのはその柄だけで良い。他の柄は問題なく売れそうだ」と答えていた。


 だがそれを聞いたルシアは、まだよく理解出来ないというような表情をしながらも「ふぅん? それなら良いや。だったらこれ一枚解くだけで良いってことだもんね?」とハンカチに手を伸ばしかける。


 ……ルシアの手がハンカチに触れる寸前。


「いや、それは勿体ない。せっかく刺せたなら俺が買い取ろう。ラシードには後で値段を聞いて支払うから、今それを受け取っても構わないか?」


 不自然な早さでハンカチを取り上げておいて、さらにそう理不尽にたたみかける俺を見たルシアは、鳶色の瞳を二、三度瞬いておかしそうに言った。


「そりゃ構わないけど……クラウスはそんなに気に入ってくれたのに、王都では受けそうにないのかぁ。ふふ、それなら残念だけどこの柄はクラウスだけの柄だね」


 その言葉が聞きたくてわざと言いがかりを付けたのだと言えば、ルシア。それでもまだ俺に微笑みかけてくれるのだろうか?

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