★34★ 氷の中に咲く花は。


 最早長期休暇の名物と言ってもいい、馬鹿馬鹿しい支払額の書き込まれた書類を延々と片付ける。その端から増えていく負債に同情してくれる少ない味方もいない屋敷内は、生家にもかかわらず酷く寒々しく、息苦しい。


「……っつ、」


 六日前にあの男が、女にねだられて新しく雇った使用人から受けた“仕置き”跡の横腹がまたじわりと疼いて奥歯を噛みしめる。細く浅い呼吸を繰り返し、その痛みが治まるのを待つ。


 甘やかせば反抗的な態度を示すだとかいう理由で、あの日以来この部屋に暖炉の灯った日はない。食事も少なく冷め切った物が運ばれる。温かな物を口にせずにいると、無性にあの温室が懐かしくなった。


 ただ何よりも問題なのは凍えるような室内でも、冷たい食事でも、横腹の痛みでもなく……後遺症の残る脚だろう。


 ここ数日で温度差に痛み続けていたはずの脚の感覚が薄くなった。それだけ聞けば良いことのようだが、膝より下にただの棒切れを括り付けているような感じだといえば、また少し違ってくる。


 汗の滲む額とは対照的に冷え切った指先で残りの書類をめくりながら、この屋敷から領地経営関係の内容を暗号形式で綴った書類を、解雇された使用人達にバラバラに持ち出させておいて正解だったと自分を慰めた。


 しかし見せ金として金庫に置いておいた税金は全て使い尽くされていた上に、俺がいない間に微増だが税金率を引き上げた細工の様子がある。領地での横領額は、すでに俺が書類の内容をつぶさに確認して削った経費で補填することが出来なくなり始め、最早破綻するのも時間の問題だろう。


 そしてこの雑な不正が王都と目と鼻の先で行われているのだということに、中枢が気付かないはずもない。泳がされているだけなのか、まだ尻尾を掴み切れていないが故の様子見なのか――。


 一つだけはっきりとしているのは、このままだといずれ中枢部から調査が入るということだけだ。そうなった時、この領地は初めて長年膿んだ歴史を繰り返してきた愚かな領主家、スティルマン家の呪縛から逃れられる。


 何度も繰り返したループの中で、こんなまともな領主のようなことを実行しようと画策したのも、実際の行動に移したのも今回が初めてだ。


 いつもであれば俺もあの男より多少マシ程度の領主でしかなく、領地の延命も中途半端なまま地位を剥奪されるか、領民に反旗を翻されてそれが中枢に知られたことならある。


 泥水で育った魚は清流に放されれば死ぬ。一般人として放逐されたところで、生まれてこの方領主としての生き方しか出来なかった俺は、物乞いにまで身を堕として野垂れ死んだ。


 横領で領地を疲弊させた愚かな貴族にもたらされる【温情】は、断頭台に上がらないだけで実質ただの死刑宣言に他ならない。しかしそれでも女として貴族社会に生まれるよりは余程マシだ。家族の抱えた借金の為に【商品】に成り下がり【出荷】されていく彼女達よりは、ずっと。


 幸い現在スティルマン家の当主に認知されている子供は俺しかいない。妹も姉も存在しないことをここまで安堵するようになったのは、アリシアや、ベルジアン嬢、そして誰よりも――ルシア。


 どのループでも見かけたことのなかったイレギュラーな親友の存在が、女性に対しての非道な行いをとることを拒絶させるようになった。これまでのループでアリシアに散々非道な行いをしておきながら、それでも。


 それでもあの暢気な微笑みを浮かべる親友にだけは……この醜い自分の本性を、知られたくなかった。


「……ルシアの元に、あれは届いただろうか」


 あの男が勝手に解雇してしまった使用人達との連絡は、まだ新しく不慣れな使用人達の目をかいくぐって水面下で取っているものの、それも徐々に難しくなるだろう。そしてこの経済状況の悪化。


 下手をすれば休暇明けに領地に留め置かれ、勝手に退学か休学届けを提出される可能性もあるはずだ。飼い殺されてやるつもりはないが、まだ親の保護下に置かれる学生の身分では、学園に通い続けるにも許可がいる。


 子供は親が親の仕事を果たさなくとも、子供の仕事を果たさねばならない。そのことに今まで疑問を抱いたことはなく、あの男に何かを求めたこともなかった。


 今まで何度ループを繰り返したところで俺はスティルマン家の長子として生を受け、実にくだらない人生を転がり落ちるだけだったからだ。だがこのループを終わらせた先に、ルシアがいる世界はきっとない。


 常日頃から三年で領地に帰ると口にするルシアと今別れてしまえば、以前にも増してこの屋敷は俺にとっての監獄となる。


 その前にと思ってペンを手に取ったのに、情けないことだが別れ際のルシアの姿が脳裏を過ぎって、一文字も思いつかなかった。あの日拒絶されたことが、聖星祭でルシアの失恋に一瞬でもホッとした自分の感情を見透かされてのことだったらと思うと、何も書けなかったのだ。


 結局そんな腰抜けが出来たことといえば、暖炉の中で燃え残った木炭を拾い上げて、真っ暗に便せんを塗り潰すことだけだった。


 日に数度、あの手紙の意味をルシアはどう受け取っただろうなどと考えては、未だに返事がないことと、長期休暇には必ず届いていた手紙の一通も届かないことがその答えだと感じて苛立つ。たとえそれが見当違いだと分かっていても。



 ――逢いたいだとか。


 ――名を呼ばれたいだとか。    


 ――触れたいだとか。



 過ぎる言葉は幾つもある。


 ただ、敢えてあの手紙に言葉としての意味を持たせるとするのなら――……それはきっと、あれだけ暢気に見えるルシアの瞳からも感じたことのある言葉だ。この部屋にも、屋敷にも、自分の影にすら。


 ■■■■。


 領主が腑抜けな以上は、代理である長子がその職を全うすべきだ。こんなところで不正な書類を言われるままに大人しく処理していて良い訳がない。


 ■■■い。


 そうするべきだと分かっている。今までだって充分手を汚したのだ。それを更にあの男に良いように使われることはない。


 ■■しい。


 けれど、今更真っ当に生きたところで何が変わるというのだろうか? 恐らく何一つも変わりはしないはずだ。


 ■びしい。


 学園での三年間が終われば、否が応でもこの領地以外に戻る場所などなく、戻ったところで俺を待つ人間もいない。


「だったらせめて……後少しくらい嘘を重ねても良いだろう?」


 誰に聞かせるでもなく零れた言い訳が、仕事再開の合図。黒く塗り潰した言葉の意味に心が萎え、寒さからくるものだけではない震えを覚えて、書類を持つ手に力がこもった。


 しかし、その時にわかに執務室の外が騒がしくなる。


 最初はメイドになってまだ日の浅い使用人が騒がしく廊下を走る音に始まり、次いで幾分重い俺に“仕置き”を入れた使用人と思われる足音が部屋の前を通り過ぎた。この大雪の中、来訪者でも来たのだろうか?


 だとすれば余程あの男に対して腹に据えかねる行いをされたものか、借金の返済を求める高利貸しか……どちらにしてもご苦労なことだと感じながら、再び視線を書類に落とした。


 ――だが。


『ですから、私はこの手紙にある依頼人のお迎えに来ただけです。もう仕事の報酬を頂いておりますので、これ以上足止めされるようでしたら、外に待たせてある犬が体力を消耗させてしまって使い物にならなくなるんですが』


 ドアの向こうから屋敷の使用人相手に揉めている気配がする。内容からして大雪の中でも配達を請け負う犬ゾリ便だ。


 どれだけ気象状況が荒れようとも物流を止められない時に使用される犬ゾリ便は、その危険な仕事内容から平民貴族に分け隔てなく無礼な口をきくことが許されている。そして運ぶ荷の重要度の高さから気性が非常に荒く、腕っ節も強い人間が多いのだ。


 だというのに聞こえてくる声の主からは、そういった荒事をこなせる類の圧力が全く感じられない。


『もう、あなた方ではお話になりませんね。ここにラシード・ガラハット様とカサンドラ・ベルジアン様の連名で書かれた署名があります。これを持ってご当主様か奥方様にお取り次ぎ下さい。さもないとこの後の配達もまだありますし、うちの信用問題になりますから、ここまでの往復金額にプラスした請求をしますがよろしいですか?』


 けれどドアの向こうで屋敷の人間相手にそう威勢良く啖呵を切る配達人の声に、驚くほど聞き覚えがある。そしてその配達人が口にした連名者の名前にもだ。


 メイドの一人が何とか機転を利かせて『談話室の方でお待ち下さい』と声をかけ、その足音が遠ざかる。しばらくバタバタと慌ただしい足音がドアの前で右往左往する気配がしたのだが、四十分ほど経った頃だろうか。


 ガチャリと部屋のドアノブが回されたと思ったら、あの女狐がさも嫌そうに顔を出し心底煩わしげな溜息を吐く。


「んもう、ほら、これで良いんでしょ? さっさと連れて行って頂戴な。後はあたしが旦那様が起きた時に話をつけるわよ」


「左様ですか、助かります。ではこちらをお納め下さい」


 女と使用人の背後に立つ犬ゾリ便の配達人の姿はこちらから見えないが、小さく重みのある物を入れた袋が見えた。恐らく中身は金だろう。それも、決して安くはない金額だ。


 女狐は引ったくるように袋を奪うと「少ないわねぇ。でもま、何もないよりは良いわぁ」と唇をつり上げ、使用人を連れて立ち去った。部屋の前に残されたのは、後ろで立ち去る女狐の背中に向かって腰を折る配達人だけだ。


 しばらく何が起こっているのか分からずにその姿を眺めていると、不意に姿勢を真っ直ぐに戻した配達人がづかづかと執務室に足を踏み入れた。


 目深に被った帽子のひさしからは氷柱が伸び、口の周りを覆い隠しているマフラーには吐息ではった氷の膜が出来ている。防寒着は雪で変色するほどグッショリと濡れており、そこから垂れる水が執務室の絨毯に黒いシミを広げていく。


 分厚い手袋を脱いで目の前に差し出された指先は、凍傷寸前だと思われるほど赤かった。赤い指先から視線を外すことが出来ずに椅子にかけたままの俺の頬に、その氷のような掌が包み込むように添えられる。


「……ありゃ、残念。せっかく暖を取るつもりだったのに……私達、同じくらい冷たいねぇ」


 真っ赤になった鼻をぐずらせてそう言った暢気な微笑みは、雪解けの季節を思わせるほどに柔らかくて、暖かだった。

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