★26★ 季節が変わる前に。
領地での揉め事を処理して学園に戻ってから、今日でもう一週間が経つ。
終わりのないループを繰り返す中で、その時々で何かを失うことには慣れていたはずだったのに、流石に今回の件では疲れが出た。
――……業の円環は繰り返す。
大切なものを失って膿んでいる時間も、大切なものを得て幸せだった時間も関係がない。今回失ったものはその中でもなかなかに手痛かった。
夏期休暇の前に届いた手紙の内容にそう記載があった時には、念だけで人が殺せるものならすぐにもそうしてやりたい気分だったが、人事はまだ現当主であるあの男の一存で決められてしまう。大方今の気に入りであるあの女に唆された愚行だ。
この展開は今までのループにもあった。あの男がスティルマン家の当主である限り、没落していくことは無理からぬことだ。まだ学生の身である俺が長期休暇のたびに尽力したところで、没落を遅れさせるくらいしか出来ないことが、何度繰り返してもやり切れなかった。
過去のループではアリシアに執着するあまり、彼女ごと引きずり堕とそうとした俺に気付いたカイルやアーロン達が巡らせた策にかかって国外追放にあったこともある。
しかし今回はアリシアに対していつものような病的な執着をしていない。にもかかわらず何かが狂い始め、狂い始めていることは分かっているものの、それが掴めないこともまた歯痒いものだ。
彼等が抜けた穴を埋めることと、馬鹿な雇用主のせいで仕事を失った彼等の新しい職場の斡旋に必死になっただけの休暇とは、何とも滑稽きわまる話でもある。
『普通はさぁ、帰ってきたら最初に何て言うんだっけ?』
屋敷に戻る時はいつでも戦地に赴く兵士のような気分だったから、そんなことを誰かに言われたのは生まれて初めての経験だ。
それでも俺を心配していたと泣いて、俺の言い慣れない“ただいま”を聞いた親友が『おかえり』と返してくれた時……どこかに帰って来るという感覚を身近なものとして味わえた。
そのせいかあんなに長く感じた二週間の半分を過ごした感覚は全く感じない。ただ穏やかに日が昇り、傾いて、沈んでいくだけの毎日を七日も続けていることが不思議だった。
思考を中断して視線を横にずらせば、昼食後の僅かな時間を使って隣で眠る親友ルシアの暢気な寝顔がある。その輪郭にほんの少し丸みが戻っていることに安堵したのも束の間。
すでに真夏の緑の香りから、秋の香ばしい土の香りが漂い始めた風が吹いた時に、不意に壁に寄りかかって眠っていたルシアが身体を丸めた。人間は動物と違って個体差があるものの、眠ると極端に体温が下がる者もいると聞いたことがある。
ルシアの肩が小さく震えているのを見ると、恐らく極端に体温の下がるタイプで間違いなさそうだ。年中乗馬服を着用しているベルジアン嬢を除けば、基本的にスカートである女子の制服では寒いのだろう。
ベルジアン嬢といえばあの髪型には驚いたものだが……あれは彼女が戦った証なのだとルシアに聞かされた時は、性別が違うとそういう戦い方もあるのかと感心したものだ。
しかしあれでは十二月の聖星祭の時に着るものに困るのではないだろうか? 流石にラシードと踊る最後の催しに乗馬服で参加するとは思えないが、あのベルジアン嬢だ。あり得ないとも言い切れないところがある。
そんなことを考えながら脱いだ上着を丸めた肩に添うようにかけてやると、その目蓋が僅かに動いた。次いで「んん……今、何時?」と眠たそうな声を上げて起き出したルシアに「教室に戻る時間を差し引いても、まだ十五分は余裕があるからもう少し眠ると良い」と答える。
けれどその答えにルシアは「ううん、もう起きるよ。次の授業はエルネスト先生の授業だからもう移動しないと」と壁から背中を離す。その拍子に肩にかけておいた上着が滑り落ちた。
目を瞬かせたルシアが「上着貸してくれてたんだ。ありがとね」とはにかむ表情に、思わず「ほんの少しくらい遅れても大丈夫だろう?」と口走ってしまう。だがすぐに正気に戻って、何を馬鹿げたことを言ってしまったのかと後悔した。
一瞬不思議そうに小首を傾げたルシアは、さっきまでのはにかんだ表情から一転、僅かに意地の悪そうな笑みを浮かべて俺の目の前で人差し指を左右に振る。
「チッチッチ、これだから優等生様は困るんだよ。良いかね? 私みたいな落ちこぼれには小さいことの積み重ねが大事なんだ。授業に真面目に取り組むのは勿論、遅刻や提出物の内申点だって大事なんだよ」
「ほう、随分とやり口がせこいな。内申点など授業をそれなりに聞いて、毎回のテストで平均点を二十も越えれば良いだけだろう?」
「うーん、起き抜けにそういう空気の読めない発言聞かされるのも久し振りだと新鮮~……って、馬鹿にすんなよぉ。それが出来れば苦労しないの。こやつめさては喧嘩売っているのかな?」
「まさか。ただの正論だ」
言い合う間に段々とルシアの笑みに凄みが増していく気がするが、このまま開始五分前まで引き延ばすかと思っていたら、いつの間にたたんでいたのか、丁寧に手で皺を伸ばされた上着を膝の上に置かれる。
――――どうやら足止めの時間稼ぎは失敗したようだ。
諦めて上着を受け取り、どこか面白くない気分のまま「俺はもう少しここにいる」と伝えれば、ルシアは「そうそう、優等生は息抜きしなさい。私は来年のAクラスに向けて頑張って来るよ」と朗らかに笑った。
そのままの笑顔で「じゃ、また放課後にね」と言って立ち上がり、こちらに背を向けたルシアに咄嗟に「グラスを」と声をかければ、勢い良く振り向いたルシアが「ああ、そうだった! きっと季節の変わり目だから安くなってるよ。放課後皆で選びに行こうね!」とはしゃいだ声を上げる。
子供っぽい反応をする親友を前にすると、こちらにまで子供っぽい感情が芽生えるものなのかもしれない。
「そうか、放課後が楽しみだ。それはそうとルシア」
「ん、何なに? まだ何か気になることでもあった?」
クルクルと良く変わる表情に一週間前の悲壮感はどこにもなく。それに安堵する自分の心を誤魔化しようもない。こみ上げてくる苦笑を噛み殺しながら俯けば、今度は急激に心が虚ろになる。
「少しだけ――……俺を励ましてくれないか」
他者に頼ることに情けないという自覚はある。近しいと感じている人物に断られる恐怖もある。ただの学友にもたれかかることなど、今までのループの中では考えもしなかった。
だから恐る恐る上げた視線の先にルシアの姿がなかったとしても、それはそれで仕方がないと。そう自分に言い聞かせて俯いていた顔を上げれば、そこにはまだルシアが立っていて。
「え、えーとその……クラウシュは、違う、今のなし! 一旦忘れろ!」
そこまで難解な名前ではないはずなのに、いつまでたっても一度で俺の名前を呼べないルシアがおかしくて、落ち込んでいた気分がそれだけで少し浮上する。
噛んだことを恥じて顔を真っ赤にしたルシアは空咳を一つ、真っ直ぐにこちらに向き直ったかと思うと、へらりと少しだけ悲しげに微笑んで。
「クラウスは、いつも頑張ってるよ。何もかもに疲れていつもの皮肉と痩せ我慢が出来なくなったらさ、私がどこか空の広いところまで連れて逃げてあげる」
そう言いながら人差し指を立てた手を、頭上でくるりと回して空に向かって円を描く仕草をしたルシアの姿につられるように見上げた空は、夏と秋との境の中途半端な高さにあって。
見知っているはずのこの世界が、どこかいつもと違って見えた。
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