★18★ 紫の雨と赤い花。


 放課後の図書館でベルジアン嬢と向かい合わせに座りながら、六日後の打ち合わせをする中で、そういえばこうして向かい合う相手がルシアでないことに、どこか不思議な感覚がある。


 目の前に広げられた姿絵の見合い相手の顔と名前を記憶していく作業の間、互いに必要最低限の情報のみ口にし、無駄な言葉を交わすこともない。


 考えてみれば同好会に在籍しているとはいえ、俺とベルジアン嬢との間には他の二人ほどの関係性はないのだから、向かい合わせであろうが話すような内容はほとんどないのだ。


 それを別に息苦しく感じることはないが、あの二人は今頃カフェ・テリアで騒がしくしているのだろう。そんなことを考えながら三人目の姿絵を手に釣書を読んでいると、不意に「ルシア共々、こちらの面倒ごとに巻き込んでしまってすまなかった」と謝罪されて視線を上げる。


 目の前に座るベルジアン嬢はどこか以前とは雰囲気が変わったような気もするが、どこがどのように変わったのかは今一つ分からない。元から凛とした美しさのある人物ではある。しかしルシア達と行動するようになってからは、ほんの少し穏やかな雰囲気を纏うようになった気がした。


「……いや、面倒ごとに付き合わされた気でいるのは、恐らく俺だけだ。ルシアは貴女のことを酷く心配していたから、むしろ頼らない方が後々面倒なことになりかねん。そうなる前に事前に声をかけてくれて助かった」


 口にした途端に困ったように眉を下げたベルジアン嬢の表情に、また言い方が拙かったのだと悟ったものの、ここには言葉選びの失敗を取りなしてくれるルシアもラシードもいない。このまま黙って姿絵に視線を戻すべきなのか、それとも何か言葉を重ねるべきなのか、それすら分からない。


 そうこうして間を置けば、もう黙って作業に戻った方がこの後の失敗を避けられるような気がして口を噤みかけた――……が。



『ス、スティルマン君も言うようになったよねぇ? 語彙、そう、語彙が増えたよ、うん。わた、私達二人とも成長してるわぁ~!』



 日付が今日になったばかりの時に、そう言って視線を泳がせたルシアのことを思い出し、少しだけ考え込む。その結果出てきた言葉が「友人だからな」という何の捻りもないものだったことは、やや反省すべき点だろうか。


 しかしたったそれだけの言葉で良かったのだということは、ベルジアン嬢の表情を見れば明らかだった。語彙の量が増えたかは別としても、以前のように相手の気分を害したままになるということはなさそうだ。


 しかし再び姿絵と釣書に視線を落とそうとする俺に向かい「スティルマンは以前よりも随分人当たりが優しくなったな」とベルジアン嬢が笑った。そんな指摘をされるほどに以前の人当たりが悪かったのだろうかと考えてみたが、ループの間に似たような失敗を重ねて破滅したことが多々あったことに思い至る。


 次はどう言葉を返したものかと悩んでいると、ベルジアン嬢はさらに「恐らく変わったのはスティルマンだけではない。ワタシもラシードも、ルシアのお陰で皆変わった」と微笑む。


 見合い相手達の姿絵の上で組んだ両手の薬指の先を、ラシードの髪を連想させるマニキュアの色が明るく彩る。


「――貴女は、ラシードのお陰で美しくなったな」


 ふと口をついて出たその言葉が、この場で彼女を困らせることになるのだとしても。今それを言っておかねばならない気がして、柄にもないことを口走っていた。


 言葉で伝えなければ、きっと一生涯後悔するのだと。あの気の狂うようなループの中で、俺は嫌と言うほど思い知ったのだ。


「今この時に余計なことかもしれないが、これでも一応友人なのでな」


 気が狂うほど行き場のない想いほど質の悪いものも、哀しいことも、この世の中にはない。友人にあの思いを味わわせるくらいなら、憎まれても良いから助言をしようと。そんな気分になったのは、ここにはいないお人好しのせいだろうか。


 そんならしくもない俺の言葉に、目の前に座るベルジアン嬢は「ご忠告、傷み入る」とどこか含みのある笑みを浮かべた。



***



 ――六月十五日の休日。


 ベルジアン嬢の見合い相手との顔合わせより二日早い、ラシード・ルシア組の二人が出かけて行く後を“見学”と称してついて行こうとしたら、何故か激しい抵抗を主にルシアから受けた。


 一体何がそんなに嫌なのかは分からないものの、ついて来るなと言われた手前、無理に待ち合わせの店までついて行って見つかることの危険性を考えれば、大人しく帰りを待った方が得策だろう。


 そう考えてラシードから離れないように言い含め、直前まで心配だと言い張ったベルジアン嬢の提案により、渋々といった様子のルシアを説き伏せて見合い場所にほど近いカフェから送り出したのだが――……。


 見合い相手との顔合わせに行ったはずのルシア達は、髪と服から甘い香りをさせて帰って来た。服に付いた香りと色でその成分が葡萄ジュースであることが分かる。しかしどういった経緯でそうなるのかが不明だ。


 見合い相手の傾向を調べた結果、ルシアを恋人役に仕立てるには清楚系の方面しか残らなかったらしく、今日のために古着屋で購入した白いワンピースは、見るも無残な状態になっている。


 隣で立ち上がったベルジアン嬢がラシードに詰め寄る役を選んでくれたので、俺は二人の間でオロオロとしているルシアに歩み寄る。顔や手に傷がないことを確認してから、ひとまず白いワンピースをどうにかした方が良いだろうと結論付けた。


「何があったのか分からんが……今が冬でなかったことに感謝すべきだな。だが取り敢えず、そのワンピースをどうにかした方が良い。如何にも穏やかでない感じがして目立つ」


 そう声をかけてから手を伸ばしたはずなのに、ルシアはビクリと身体を硬直させた。そんな反応をされたのは初めてのことだったので、一瞬伸ばした手のやり場に困ってラシードを見たが、ニヤリと笑うだけだ。


 そこで最初の声のかけ方が良くなかったのかと思い「一度目にして災難だが、随分と鮮やかな装いになったものだな?」と軽口をきけば、ようやく「でも、これで汚す心配をしなくて良くなったよ」と笑ってくれた。


 ルシアがいつものように笑った途端、俺はそれまで彷徨わせていた手の定位置をその頭の上に定めることにする。くしゃりと掌がルシアの髪をかき混ぜれば、ベトリと拭いきれなかったジュースが髪ごとへばりつく。


 ごわついた感覚に眉根を寄せれば、それまでベルジアン嬢に詰め寄られていたラシードが「あの娘がルシアが恋人だなんて信じないって言うから、目の前でルシアの頬にキスしたらジュースをぶっかけてくるんだもの。気位が高いのは構わないけど家庭内暴力はねぇ?」と、とんでもない発言をする。


 一瞬思考の止まった俺の前ではルシアが「おおぃ、ラシード!? 言わないって約束じゃないかぁ!」と耳まで真っ赤に染め上げた。


 そんなルシアに歩み寄ったベルジアン嬢が「そうか、これがキャットファイトというやつなのだな? ファイトというからには、やられたままでは済ません。なに、女同士であれば問題はあるまい。こちらはブラッドオレンジでいこう」と血迷った発言をする。


 結局店内で騒ぎすぎた俺を除く三名のせいで店に居辛くなったため、続きは学園の図書館で話すことにして店の外に出たのだが……。


「あら、やだわぁ。これ帰るまでにお天気保つかしらねぇ? ま、降られたところでアタシとルシアは今更痛くも痒くもないけど」


「……さっきまでは良く晴れていたのに。だが確かにここで雨が降ったところで、ラシード達は先に葡萄ジュースに降られたのだ。ワタシとスティルマンも一緒に濡れ鼠になるのも良いのではないか?」


 口々に好き勝手なことを言いながら先に歩き出した二人の後を、俺とルシアが並んでついて行く。ラシードの暴露ですっかり静かになってしまったルシアをチラリと見下ろせば、ちょうどこちらを見上げてきたルシアの視線とぶつかる。


 その視線が逸らされてしまう前にジュースで固まった前髪を摘まめば、パチパチと目を瞬かせたルシアがおかしくて。前髪から離した指先に残った葡萄ジュースを口に含むと「ちょっ、何やってんの、汚いよ!?」と慌てた様子のルシアに手を引っぱられた。


 特にこちらが何も考えずに取った行動で、こうも素直に反応を返すルシアをラシードが面白がるのも無理はないのかもしれない。ラシードであれば直接屈んで前髪を咥えるくらいするのだろうが、流石にそこまでやると本気で怒られそうだ。


 しかし不意に“ここで止めると面白くない”という思いが沸き上がって来るのも確かなので、その髪にある赤い小花のヘアピンを引き抜いて、細かな花弁の中に残った葡萄ジュースを指先に落として舐めとってみる。


 すると顔を両手で覆ったルシアが「それはカーサ用の練習だよね?」と言いながら後ずさった。


 ――――ああ、成程。そんな反応を返すのか、と。


 声にならない愉悦を感じた。

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