第6話 9歳の年の功
セシリアの瞳が、『新たな始まり』を予感してペリドットの光に煌めいた。
そしてそのまま勢いよく、キリルへと顔を向ける。
「キリルお兄さま。私、やらなきゃいけない『おべんきょう』はさっさとはじめて、とっとと終わらせることにする!」
そう告げたセシリアの表情は、実に晴れやかだった。
堂々とそう言い切った妹に、キリルは少し驚いた様な顔をした。
しかし、すぐに「ふむ」と思案顔になる。
そして、数秒の沈黙の後。
「……あぁ、確かにそれは我が家好みの考え方かもしれない。お母様の好きな『効率的』、というやつだね」
納得声でキリルはそう呟いた。
この少ない時間と言葉でキリルが納得できたのは、何も偶然ではない。
それは『一緒に過ごした時間』の賜物だ。
共に過ごし、思考回路や行動原理を理解し、その行先を予想できる。
俗に言う『以心伝心のなせる業』というやつである。
そして分かっているからこそ、目を輝かせている目の前の可愛い妹にこう告げる。
「でもその為には、頑張らないといけないよ? 頑張れそう?」
セシリアがしようとしている『勉強』という作業は、今はまだしなくていい事である。
彼は、自分たちの母親が、子供達に厳しい事を知っている。
オルトガンの教育方針は『放任』だが、つまるところそれは「自分で考えて動け」という事であり、「自分で決めた事にはきちんと責任を取れ」という事である。
しかし、思いつきを口走った今ならばまだ引き返せるだろう。
これはそんな、兄から妹へ送る配慮の言葉だった。
セシリアは、幼児ながらに少なからず彼の意図を汲み取っていた。
しかしその上で、こう応じる。
「大丈夫!! わたしにも『目標』があるから!」
それは実に自信に満ちた声で。
「へぇ、一体どんな目標なの?」
キリルはその目標がどんなものか、何だかとても気になった。
コテンと首を傾げる兄に、セシリアは口元を両手で押さえて「うふふ」と笑った。
そしてナイショ話をする時のように、口に両手を添えてみせる。
そんな彼女の行動に、キリルは素直に耳を寄せた。
すると、妹の嬉しそうな声がキリルに囁く。
「ゆっくりお茶をのみながら、お母さまやキリルお兄さま、マリーお姉さまとおかしを食べて、お話するのが『目標』なの」
そんな妹の言葉にキリルの口元から自然と笑みが溢れる。
「それはとても良い目標だね」
口ではそう言ったものの、彼の心にあったのは「とても可愛い目標だ」という言葉だった。
どうだ、凄い目標だろう。
そう言いたげに胸を張る妹が可愛くて、そして自分と過ごす時間を『目標』掲げてくれた事が、彼にはとても嬉しく思えた。
「そっか、じゃぁ頑張って」
意気込むセシリアに、キリルは彼女の頭を優しく撫でながらエールを送った。
するとその手を、セシリアが嬉しそうに甘受する。
するとすぐそばから小さな笑い声が溢れた。
2人してそちらに目をやると、そこにはこれまでずっと傍観者に徹していた母親が居る。
母・クレアリンゼは、よしよしと撫で、よしよしと撫でられる兄妹の姿を、ひどく微笑ましげに見つめてきていた。
そしてそんな彼女が、徐に口を開く。
「セシリア。目標の為の指針を決めたのなら、次は『どうすれば実現できるか』を具体的に考えてみなければね」
その言葉は、やはり4歳児には理解するのが難しそうなものだった。
そして案の定、セシリアは言われた事の意味がよく分からなかった様だ。
セシリアは、半ば反射的に首を傾げた。
するとすかさず、兄による助け舟が出される。
「“ティータイムの為に『おべんきょう』は自分でさっさと始めてとっとと終わらせよう”って決めたなら、次は“それを実現する為の方法を考えて、決め事を作らないといけない”っていう事だよ」
キリルの言葉は、母親の言葉を正しく理解し、しっかり要点を押さえ物言いだった。
そしてそれを受けて、セシリアも正しく母の言葉を理解したようだ。
「決めごと……」
そう呟きながら、セシリアは「ふむ」と思考を巡らせ始めた。
そしてそれに釣られたように、兄も自然と熟考の入口へと誘われる。
しかし、その時。
「とりあえず今考えるのはそこまでにしておきなさい。せっかくお茶もお菓子もあるのだから、一緒にゆっくりして楽しいお話をしましょう」
思考の沼へと片足を突っ込んでいる子供達に、そんな声がかけられた。
それは決して大きな声ではなかった。
いつもの穏やかな母親の声だったが、同時になんとも言えない強制力を孕んでいるように思えた。
そしてそのお陰で、2人の思考はそこで一旦中断される。
この強制力に彼女の意図をキリルだけが察したのは、彼の年長たる所以だろう。
セシリアより5歳も多く生きている彼は、セシリアよりも5年も多く母親と付き合っているのである。
(……「質の良い思考には休憩も必要だ」っていう事かな)
母の様子から、キリルはそんな風に彼女の意図を読み取った。
実際のところ、その予想は正しかった。
そして、だからこそキリルはクレアリンゼの思惑通りの方向へとセシリアを誘導できる。
「あ、ほらセシリー。今日はココア味のカヌレがあるよ!」
ティースタンドに乗っていたカヌレを一つ手に取って、キリルは彼女の口元へと持っていく。
「セシリアは、これがお気に入りでしょ?」
そんな言葉と共に大好物の甘い香りを与えられれば、セシリアにはその誘惑に逆らう術が無い。
セシリアが躊躇なくカヌレにパクつくと、キリルは嬉しそうに微笑んだ。
もう片方の手でまた「よしよし」と頭を撫でて貰いながら、セシリアはモグモクと口内の幸せを堪能する。
(ありがとう、お兄さま)
口の中はいっぱいで、残念ながらお礼を言えるような状態じゃない。
だからセシリアは、視線でお礼を告げてみる。
その視線に気がついて、キリルはまた嬉しそうに頬を緩めた。
そしてそんな2人の様子を、母はやはり穏やかな表情で眺めているのだった。
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