第9話 領主様の夕食ルール

 


 ワルターはふぅっと深く息を吐くと、壁に掛けられた時計に視線を向けた。


 時刻は午後8時を先程回ったばかりである。




 昨日は5時間、睡眠をとった。


 今日は朝10時に起き朝食を食べた後、11時頃から今までの間ほぼノンストップで書類仕事を続けている。

 昼食は片手で食べられるものを用意してもらい、視線は書類に落としたまま口だけもぐもぐと咀嚼して済ませている。

 仕事合間の水分補給も書類片手に行う為、休憩と言えばせいぜいトイレ休憩位のものだ。



「旦那様は仕事に対して真面目過ぎるのです。だからそんなに自分を酷使する様な仕事の仕方になるのですよ。偶には子供達と会話の時間を作り、仕事の休憩としたらどうですか?」


 とは、妻であるクレアリンゼの言だ。

 クレアリンゼは普段からワルターの様子に目を光らせており、度が過ぎる場合にはそれを見逃さず釘を刺してくる。


(それも、クレアリンゼが私を心配してくれている証拠なのだという事は分かっているんだが)


 確かに仕事に忙殺されている事も、子供達との時間が取れない事も、クレアリンゼに指摘された事は全て、紛れも無い事実である。

 その事については子供達に対して申し訳なく思うし常日頃から気になってもいるのだが、その為に割ける時間が無いのだから仕方が無い。


(領主として私がしなければならない仕事がある以上、仕事をしないという選択肢は存在しない。『貴族は領民の為に働くものだ』というのは、私が子供達に日々言っている事だ。それを自ら破ることなど論外だからな)


 そこまで考えて、思わず苦笑する。


 こんな事をクレアリンゼが聞こうものなら、また『だからその考え方が真面目すぎるというのだ』と言われてしまいそうだ、と。




 集中が途切れてしまったので、ついでに簡単な柔軟体操に入る。


(一日中同じ姿勢のまま書類に向かうのだ。これも一種の職業病ではあるんだろうが、全くどうにかならない物だろうか)


 すっかり固まってしまった肩周りを動かし始めると、首筋から肩に掛けての痛みが思い出したかのようにやってくる。


(自身の肩を揉み解す事にも、いつからかすっかり慣れてしまったな)


 そんな自身に呆れながらも、そうしないと痛いのだから仕方が無い。

 端から少しずつ揉み解していると、まるでその時を待っていたかのようにこんな声が聞こえてきた。 


「失礼します」


 聞き慣れた声と共に、筆頭執事・マルクが夕食を室内へと運んでくる。


 ワルターの前までやってきて再度「失礼します」と一言置いてから執務用デスクに夕食を置くスペースを確保し始めた彼の手際も慣れたものだ。


 彼は机上にあった書類をササッと除け、ワルターの目前へと次々に夕食を並べていく。


(夕食は朝食や昼食とは違って片手で食べられないから不自由だ。お陰で食べながら執務が出来ない)


 寧ろ食事中に仕事を中断させる為のクレアリンゼの策だという事は重々承知の上で、しかしそれは棚に上げてワルターは「うーむ」と唸った。


 しかしこうなったのもある種の自業自得なのだから仕方が無い。



 クレアリンゼには結婚当初、「仕事で無理しがちな夫の体調が心配だ」と言って『毎日最低5時間は睡眠をとる事』を約束させられた。

「睡眠をとった分、集中力が上がって仕事の能率が上がるから」と説得されたが、どちらかというとその言葉に、というよりも彼女の断固たる精神に押し負けたという方が正しかっただろう。


 しかしそういう理由だから、その言葉の意味と彼女の意図については正直、あまりきちんと考えていなかった。

 だからその約束のせいで削られた執務の時間を、今度は食事を食べながら仕事をする事で補い始めたのだ。

 その時、食事も片手で食べられるものを出してくれるように、クレアリンゼが食べる物とは別でコックに頼んだ。



 それが悪かった。

 その事実をマルクから半ば告げ口と言う形で伝えられていたクレアリンゼの剣幕ったらなかった。



 クレアリンゼは笑顔で執務室に現れた。

 その時の怒っている事が疑いようも無く分かる彼女の笑顔に、今までに無い戦慄を覚えた。


 思わず顔を青くした彼を前に、クレアリンゼは夫に笑顔のブリザードを浴びせながら『話し合い』を行った。


 執務の合間に休息時間が必要な理由。

 食事を摂る時間の大切さ。

 そして執務に休憩時間をとらないワルターにとって、食事の時間というものは脳を休憩させながら栄養を摂取できる一石二鳥の時間なのだという事。


 それらをかれこれ1時間以上に渡って、滾々と説明された。



 その時だ、クレアリンゼに「夕食だけでも両手を使って取る必要のあるメニューを食べる事」と約束させられたのは。




 それからかれこれ10数年。

 彼女との約束を、ワルターは破った事が無い。


(あの時の再来は、もう二度と勘弁していただきたいものだ)


 心中でそう呟いていると、マルクが此処で丁度全ての食事を机に並べ終わる。



 温められて湯気の立っている食事は、食欲を刺激する美味しそうな香りがしている。

 そうなって初めて、ワルターは自分がとてもお腹が減っていたのだという事に気が付いた。


(匂いにつられて初めて食欲を思い出すなんて、これではクレアリンゼもマルクも自分の事を心配するはずだ)


 自身の狂った腹時計にすっかり呆れながら、フォークを手に取り食事を始める。

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