第9話 祈り
みぞおちのあたりの内臓が知らないうちに抜け落ちたような恐怖感が、日常の隙間にふと現れる。それが、始まり。
そして徐々に意識がとらわれの状態になり、嵐は日常を失う。
健康な感覚で言う思い込み、妄想、夢想の世界に取り込まれる。誰の声もうまく届かなくなり、聞こえなくなり、頭で理解できても反応することが出来なくなる。
嵐はそんなときに赤い線を重ねる。
生をつなぐため。
正気を保つため。
この世からとりのこされ、消えていく恐怖と戦うために。
あとになって嵐はその行為をどれだけ異常かと測りたまらなくむなしくなる。けれど、そうせずにはいられない。
嵐は信じていたものすべてを失った。
そして壊れた世界を見渡せる西向きの窓に立ち。
そのガラスに。
赤い線をひく。
ぬりかさねる傷。
傷ごしに見る世界。
それがある意味歪んでいることを、嵐は痛切に理解していた。
由比と言う存在を失った事実によって。
だが嵐はそれをどうしたら、「ふつう」に振る舞えるのか、わからなかった。
どうしたら、傷に目の前をふさがれずに、むかしのような瞳で、世界を見られるのかわからなかった。
わからずに、ぬりかさねる赤い線。
ユメを阻む深い傷痕。
(深くしたのは、私かもしれないね)
夕焼けに赤い景色を見ながら嵐は思う。
(直したいと思ったことが、願ったことが、私を歪めた)
癒そうとしたことが、傷の痛みを増す。
(私は間違っていたかな)
増した痛みは自分自身にとどまらず、由比をも傷つけた。
(私は他に出来たかな)
何も、他の道を選べたことはなかったと、嵐は思う。
別の選択をすることが正しかったかもしれなくてもそれでも、嵐が今ここにいることが、何よりも重い、現実だった。
それを否定することは、嵐には出来なかった。
――まだ痛い。
まだ何も済んでいない。
大丈夫なことなど、ひとつもない。
みぞおちのおくの空虚がマイナスに嵐を連れて行こうとする。背筋の後ろに死を感じて、嵐は唇を噛んで怒りを引き出した。
赤い線。
(それでも)
生きなければ。
力をこめて、引く。
生きたい。
赤いインクがあふれて、ながれだす。
――死にたくない。
全身の力を込めてかさねながら。
景色が赤を失い冷たい闇が部屋を閉ざすまで、心の奥底に小さく身動きをする感情をみつけて、嵐は涙を流しつづけた。
目を見開いたまま声も上げずに、ただ、ただ、あふれてくる感情を、流しつづけた。
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