日陰でアイスコーヒーをすすりながら

 網戸あじと先輩は、あたしが「お師匠」と呼ぶと微妙な顔をした。



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「コーヒーが美味しいですねえ、お師匠」


 コンクール会場である、県内のホールで。

 あたしと網戸美咲あじとみさき先輩は、コーヒーを飲んでいた。


 今は、リハーサルが始まるまでの待ち時間だ。

 建物内にある飲食スペースには自動販売機が多く並んでおり、あたしたちはそこで買ったコーヒーを飲みつつ、一息ついている。


 あたしが「お師匠」と言うと網戸先輩はやっぱり微妙な顔をしたけど、特に何も言わないままコーヒーをすすっていた。

 というかこの人、この真夏にブラックのホットコーヒーなんか飲んでるんだけど……暑くないのかね。

 そう思っていると、あたしの思考を読んだかのように先輩は言ってくる。


「意識を覚醒させるなら、私の場合ホットコーヒーのがいいんだよ。仮にも本番前だからね。砂糖を入れると逆に眠くなるから、今回は入れていない」


 熱いものを口にしているわりに口調は涼やかで、それはいつもの網戸先輩の態度そのものでもあった。

 この人はいつだって、泰然自若としている。まあ、そう見せているかもしれないけど、少なくともこの人が激しく動揺する場面なんて想像つかない。

 だからこそ、あたしはこの人を師匠に選んだわけなんだけど――と、そう考えたところで意識がぼやけてきたので、アイスコーヒーをひとすすりした。


 先日のあの一件以来、あたしは見えすぎる未来から距離を置くため、わざと焦点をズラしてものを見るようになった。

 おかげで、以前のように肌を直射日光で焼くような、激しい苦痛は感じなくなったけど――代わりに、自分がどこか自分でないような、意識だけが遊離して拡散してしまいそうな、そんな感覚に襲われるようになってもいたんだ。


 そんな自分をつなぎとめるため、気付け薬としてコーヒーを飲み始めたわけだけど……そうか、ホットでブラックの方がいいのか。さすが師匠、これは覚えておこう。


 元々コーヒーは嫌いじゃない。

 けど、ブラックで飲むほど精通しているわけでもなかった。今度試してみよう――と、相も変わらず感覚がふわふわしていて、どこか片隅が眠っている頭でそんなことを考えていると。


 またホットコーヒーを一口飲んでから、網戸先輩は言ってくる。


「うむ。ではこれを飲み終わったら、中に入って他の学校の演奏を聞くか」

「え」


 予想外の発言に、思わずそんな声が漏れた。

 いや、だって、この先輩からそんなやる気のある言葉が出てくるとは考えてなかったんだよ。

 そしてそんなあたしの反応に、網戸先輩は首を傾げる。


「? なんだ、せっかく本番の会場まで来たんだ。生演奏を聞くのが筋というものだろう」

「い、いや……あたしはそういうの、ちょっといいかなって……」


 本気で不思議そうな先輩に、どう返していいか迷う。

 正直あたしは、このまま本番までここで時間を潰したいと思っていた。


 というか――と思ってたんだ。


 今は現実からピントをズラしているからいいけど、ホールの中に入ったらそうもいかない。

 あんな光を直視したら、まぶしくて目が灼けてしまう。


 お前は何もできなかったんだろ――と、そこから伸びる自分の影に囁かれるようで、そのまま死んでしまいたくなる。


 一時的な処置で麻酔を施しているとはいえ、道化になりたてのあたしにとってそれはまだ、耐えがたいことだった。

 付け焼刃の化粧なんて、あっという間に剥げる。

 剥き出しの魂に、直接触れられるような苦痛――それを本能的に、リアルに想像してしまって、あたしは身をこわばらせた。


 すると――


「……ふむ」


 そんなあたしの様子に、立ち上がりかけた網戸先輩はそのまま腰を下ろした。

 またしても読めなかったその行動に、呆然としていると――先輩は少し考えた後、「よし」と口を開く。


「なら、大ホール入り口前のテレビの前に行こう。あそこなら今やっている学校の演奏が観られるからな」

「……え」


 本当なら、演奏というのは生で聞いた方がずっといい。

 だからこそ、先輩はホールに行こうとしたわけで――なのに予定を変更したということは、あたしに気を遣ってということに他ならなかった。


 そんな風に、他人の行動を制限したくない。

 あたしに構わず、どこへなりとも行ってほしい――そう思ったけれど、先輩はコーヒーをすすりながら、何でもないことのように言う。


「そういえば、ホール内は飲食禁止だからな。そのアイスコーヒーの氷が溶けるのには、まだ時間がかかるだろうし、どのみち会場には入れない。だったら、外で聞いた方がいいだろう?」

「……それは、だって」


 もっともらしい理屈をこねる網戸先輩は、いつものように飄々としていて、本当は何を思っているのか悟らせてくれなかった。


 あたしみたいな未熟者と違って、この人はもう周りを気遣えるくらいの余裕を持っているのだ。

 自分も、こうなりたい――そう誓ってこの人の近くにいるあたしは、何度か言葉を選んだけど、結局こう言うしかない。


「……ありがとうございます、お師匠」


 そう言うと、先輩はやっぱりいつものように、微妙な顔をしたけれど。

 それでもいつものように、特に止めろとも言わなかった。


 それに安心して、あたしもコーヒーを飲んでいると――ふと気づいたように、網戸先輩は「ああ」と言う。


「先ほどのきみの発言に、返事をしていなかったな。そうだな。コーヒーは美味いな」


 こんな風に、日陰でアイスコーヒーをすすっていたあたしだけど。

 このときの記憶があるから、この年のコンクールはそんなに悪い印象を持ってないんだ。

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