ある日先輩にしっぽが生えた

屑原ゆに

小悪魔先輩

 夏目先輩にしっぽが生えたのは三日前のことだった。


 プリーツスカートの下でゆらゆらと規則的に揺れているそれは、つい僕の目を引いた。猫じゃらしを見ている飼い猫はこんな気持ちなのかもしれないと初めて思う。


「なーに見てんの?」


 夏目先輩はわざとらしくゆっくりと振り返りながら言う。その表情は僕の視線に気づいていたようでからかうようなものだった。


「べ、別に、しっぽのようなものはなにも」

「しっぽ? なに言ってんの、幻覚でも見た?」


 先輩が僕の額に手を当てて熱がないか確認している間、しっぽはぴょこぴょことさっきより上に伸びて揺れている。スカートの裾がめくれてしまいそうでどきまぎする。

 しっぽはトランプのスペードのような形をしていて、いわゆる悪魔のしっぽみたいな見た目だ。


「なんでもないです。忘れてください」


 先輩の手を振り解くと一歩後ろに下がって距離をとる。しっぽは少し下がって静かに揺れた。


「夏のせいかな」


 真剣な表情で顎に手を当てているけど、暑さのせいで僕がおかしくなったとでも言いたいのだろうか。

 エアコンが壊れた美術室の中で僕らは二人っきりだった。夏休みの校内は部活動が盛んではない当校では人は数えるほどで、廊下に出るとあまりの静けさに世界に僕ら二人だけ取り残されたように錯覚する。


「先輩はいつから美術部なんですか?」

「一年の頃から。最初は三年の先輩が二人いたんだけど今では一人ぼっちだよ。君が入部してくれれば部の命も延びるんだけど」

「僕の絵見て言ってます?」

「にゃははさすがにやばいかー」


 先輩が笑えばしっぽも可笑しそうにブンブン揺れる。

 美術部のたった一人の生き残り夏目先輩と課題のために登校している僕、きっと不思議な光景だろう。優れた色彩感覚によって描かれる繊細な先輩の絵と誰が見ても下手くそだと言うほど絵心ゼロの僕の絵が並んで描かれているのだから。


「君の腕はいつ治るのかな」


 悪魔のしっぽが僕の左腕を指している。


「夏休みが終わる頃には」


 無心にキャンバスに筆を走らせながら答える。

 僕の左腕は現在ギプスで固定されている。不運なことに事故に遭って学校に来られなかった期間のせいでこうして暑い中課題をする羽目になっている。


「痛い?」


 今は痛みを感じていなかったけど、気になったことがあって僕は嘘をついた。


「痛いですよ。すごく」


 すると先輩のしっぽが怯えたように縮み上がった。どうやら感情と連動しているらしい。


「嘘です」


 だらりと床に落ちる。面白い。


「どうして意味もない嘘をつくかな。そういうお年頃なのかな」

「そうですそうです。思春期特有のあれです」

「そうかあれか」


 しっぽも心なしか楽しそうに揺らぐ。それを見て僕も嬉しくなる。


「先輩の絵はいつ完成するんですか?」

「んー、いつかなあ。これだけは完成させたいんだけどね」


 先輩は困ったようにしっぽを下げる。先輩はその絵を僕が来た日よりも前から描いているようだった。


 僕が初めてここへ来た日、夏目先輩は広い美術室の真ん中でキャンバスに向かっていた。

 その大きなキャンバスには繊細な宇宙空間のような空が描かれていて、けれど中央が不自然に空いている。気に入らないのか何度も描き直しているようだ。真剣な表情で筆をとる先輩の姿に見惚れていたら、僕に気づいた先輩に話しかけられておかしな僕を笑った。

 そしたらしっぽが見えるようになっていた。そう考えたら変な話だ。本当に暑さで頭がやられてしまったのかもしれない。


「その真ん中になにを描くつもりなんですか?」

「それがね、なに描いてもしっくりこないの」

「悪魔がいいです」

「へ?」


 勝手に言葉が口をついて出ていた。先輩のしっぽが驚いたようにピンと立つ。


「あ、いや、変なこと言いました」

「んー、君意外といいこと言うね」


 先輩は不敵に笑い絵の具のチューブを手に取る。先輩のしっぽがうきうきしているように揺れていたので機嫌を損ねたりはしていないことに安心した。


「悪魔ってしっぽは生えてるかな?」

「生えてますね。絶対に」


 先輩はすらすらと絵を描いていく。僕も手を止めていた課題を再開する。

 僕の絵に先輩はけたけた笑いながらもどうすれば上手に見えるか教えてくれた。先輩が僕の手を直接持って指導してくれるけど、暑さのせいか手汗がひどくてバレないか気が気じゃない。そんなとき先輩のしっぽはなんだか楽しそうに揺れていた。


 それから一週間が経った頃、僕の課題はようやく終わった。本当はもっと早く終わらせられたけど、先輩のしっぽが興味深くてついわざとゆっくり手を進めて長引かせた。

 こんな暑い美術室にこもるなんてうんざりなはずなのに、なんだか喪失感に胸が苦しく感じる。

 僕の最終日、先輩は遅れてやってきた。

 汗を拭いながら美術室に入ってきた先輩には、いつも背後を揺らいでいるものがなかった。


「先輩! しっぽはどうしたんですか」

「しっぽ? こないだから君はなにを言ってるの」

「ええ、だって……」


 先輩からしっぽがなくなった。思春期のせいか中二病なのか暑さで頭がやられていたか、僕にはもう先輩のしっぽが見えない。


「課題を終えた君にプレゼントがあるんだった」


 そう言ってしっぽを失った先輩が差し出したのは、彼女がずっと描いていたあの絵だった。

 真ん中に描かれた悪魔と思しき女性のような見た目をした人物にはしっぽが生えている。それは昨日まで先輩についていたものと瓜二つで先輩の顔をつい見やった。


「え、これ。ほんとにいいんですか? ずっと大切に描いてたんじゃ」

「いいのいいの。君とは良い思い出ができたから記念にとっといて。ずっと見つめられててちょっと描きづらかったけど」


 先輩はわざと僕の耳元で言う。僕がしっぽに見惚れていたことはバレていたんだろうか。恥ずかしくなって顔が熱くなる。


「み、見てないですよ!」


 見え見えな嘘に先輩は小悪魔的に笑った。



 夏休みが明けて、僕のギプスも取れた頃多少は涼しくなった美術室を訪ねるとそこにはさっきまで授業をしていたであろう担当の先生がいた。


「あの、夏目先輩はまだ来てませんか?」


 あの小悪魔な笑みをまた見たくて思わず来てしまった。


「夏目? ああ、夏目なら転校したよ。ご両親の仕事の都合らしい」

「え……?」


 にわかには信じられなかった。

 つい先日までそこで当たり前のように絵を描いていたのに。僕にはそんなこと言ってくれなかった。

 そう思ったけど、たった一週間と少し隣りで絵を描いていただけの関係の後輩にわざわざ言わなくたって当然かもしれない。でも絵をくれたから少しは仲良くなれたと勝手に思っていた。

 せっかくギプスが取れたのに盛り下がった気持ちで家に帰る。熱気がこもった自室の壁に立てかけた先輩の絵は夏の忘れ物のように寂しげだった。


 ぼんやりと見つめていたら絵の中の悪魔のしっぽが揺れたような気がした。

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