第1話 魔法の時代

 全身の血が熱湯になったかのような痛みに耐えながら、少年は思考の鈍くなった頭でぼんやりと考えていた。

 かつて、神代と呼ばれる時代があった。

 誰もが魔法を使うことができ、夜は昼のように明るく、飽きるほどの食物が溢れ、あらゆる病が治ったという。

 そう、誰も信じてなどいない、ただの御伽噺だ。

 自分が魔法を使えれば、こんなものすぐに治るのだろうか。幸せになれるのだろうか。誰かのために戦えるのだろうか。



 皇国の西方、魔獣の森にほど近い辺境の村の中心部。かつての戦乱の時代に築かれ、今では魔獣を狩ってその臓器や皮を売る破落戸が根拠地としている廃城がある。簡素な牢獄を流用した収容室で、黒髪に薄い褐色の肌の少年が傷口の痛みと熱、倦怠感に苦しんでいた。傍らに座る白い髪の青年、シウが汚れたぼろ布で少年の首と額の汗を拭きとる。シウの顔には不安と焦りの感情が浮かんでいる。

「ハル、どうだ? まだ痛みは引かないか?」

 ハルと呼ばれた少年は応えようとして、唾を飲み込むことすら難儀な状態になっていることに気付く。

「……大丈夫。まだ、大丈夫」

 水が欲しいという言葉が喉まで出かかったが、言えなかった。牢の外にいる見張りに要求したところでおいそれと聞くような人間でないことは知っている。牢獄は石造りが剥き出しで夜はいつも寒いが、今だけは地肌や薄汚れた衣越しに当たるゴツゴツとした石の冷たさに助かっている。

 怪我をしたのは三日前。その日槍や毒矢などの武器を持って森に入ったはハルを含め12人。森の中を進んで数十分後、細長い肢体に平たい顔がのった人間大のオオカミのような黒い魔獣、蒲牢ホロウと遭遇した。彼らは、その魔獣一体を総出で切りつけ、突き刺し、矢を射かけた。蒲牢ホロウは異様に長い脚で四つん這いのまま素早く動く。最初に毒の矢が当たるまでに三人が何もできないまま致命傷を負った。鏃に塗られたトリカブトの毒によって蒲牢ホロウの動きが鈍ってもなお、その膂力と凶暴性に圧倒され次々と倒れていった。鋭利な前脚の爪に肉を裂かれ、血が噴き出し、骨の折れる音がした。叫び声が辺りを満たした直後、少年達の後ろにいた男の一人が即座に駆け寄り、倒れて泣き叫ぶ少年の喉を刀で突き刺した。

「うるせえ、他の魔獣が寄ってくるだろうが! てめえらもさっさとそいつを殺せ。もたもたすんな!」

 破落戸達が編成した魔獣狩りの班には必ず複数人の監督役が存在し、邪魔になった者や逃げ出そうとした者を殺す。この日もまた例外ではなかった。少年らよりよほど栄養状態の良いであろう体格をしたその男は刀を抜いた。少年の口と喉の傷から血がどくどくと溢れる。まだ数えるほどしか狩りに連れられたことのないハルはその様子を見て足を止めてしまった。血と共に誰も聞こえない叫び声を出しながら痙攣し、崖から滑り落ちるように死へと近づくその姿に心臓を鷲掴みにされた。

「前から気持ち悪いと思ってたんだわ。デキモノまみれの体でよう、死ねや」

 監督役の男は舌打ちをしてハルの背中を蹴った。彼が状況を把握する間もなく、蹴飛ばされたハルの左脚の脹脛に蒲牢ホロウが咬みつき、土と涎に塗れた牙が肉に食い込む。膝から下を引きちぎられるような痛みに、必死に歯を食いしばったまま抑え込むように叫んだ。

「今だ。今のうちに、全員でかかれ」

 他の少年達がその隙に蒲牢ホロウにを滅多刺しにし、その日の狩りは終わった。生き残ったのはハルを含め6人に満たなかった。

 その後三日をかけて傷口が少しずつ膿み、熱が出た。まともな食事もとらせてもらえないこの環境では治るはずもなかった。

 何もしていないのに鼓動が少し早い。鈍く痺れた頭の中で、死神が呟く。

(ここで死ぬんじゃないか?)

 その予感はまるで毒のように、じんわりと心を浸蝕していく。天井の何もない岩肌を映していた視界が歪む。

 どこか遠くから、怒鳴り声のようなものが聞こえた気がした。

「ハル、すまない、すまない。私にはどうすることもできないんだ」

 悲痛な表情を浮かばせるシウの顔を見ると、様々な感情が混濁して爆発しそうになる。目元を押さえようと両手を顔に持っていくが、腕が小刻みに震える。

「俺に魔法が使えたらなあ、って。そうしたら、こんなものすぐ治るのに。みんなを助けられるのに」

 喧噪が大きくなっている気がする。

「俺も、誰かのために戦いたかった」

「ハル、何か音が――」

 怪訝な顔をしたシウが言い終わる前に、突然爆発音が辺りを満たした。シウはハルを庇うように位置を変え片膝のまま牢の中から周囲を見渡した。広い通路を挟んで向かい側の牢でも、中に捕らわれた者達は同じように困惑していた。

 叫んでもいないのに異様に大きく、そして落ち着いた声がどこからともなく響き、廃城を支配した。

「城内に潜伏する賊徒共に告ぐ。こちらは皇国陸軍である。貴様らには無許可でに侵入した罪、子供を戦闘に動員した罪、人身売買他複数の容疑がある、武器を捨て投降をすれば命は保証するが、抵抗すれば容赦はしない。もう一度言う。武器を捨てて、投降しろ」

 砂嵐のような雑音が混じった異様に大きな声が話し終えて数秒すると、乾いた破裂音が連続した。各々武器を携えた10人以上の破落戸達が、怒声と悲鳴をあげながら共に牢の通路に逃げ、ハル達の目の前を過ぎ去っていった。ハルは混乱した。

「何あれ」

「分からない。ただ、たぶん今はじっとしていたほうがいい」

 数人の黒服の集団がそれを追いかけ、丁度ハルのいる牢の前で足を止めた。全員が木材と鋼の混じった棒状の獲物を抱えている。

「守衛室及び備品室クリア」

「牢に多数の未成年を確認。報告通りのようです」

「イェン隊長。投降した者から牢の鍵を押収しました」

「安全確認が取れ次第後方の牢から順に解放しろ。必要があれば医療班を」

「了解」

 破落戸達が武器を持たせた数人の少年をけしかける。

「行けクズども。一歩でも後ろに下がったらぶち殺すぞ」

 黒服の集団の前に、刀や短槍を持った少年達が襲い掛かる。

「リー、威嚇射撃、5発」

 すぐ後ろに控えていた男が黒い獲物を真上に向ける。即座に先端が5回、連続して火を噴いた。石造りの天井から砕けた石と砂がパラパラと落ちる。けしかけられた少年達は、耳をつんざくような音と衝撃にうろたえ間合いに入る前に足が止まった。

「あれが噂の、火を噴く魔法……」

「さっさとやれ。 魔獣の餌にしちまうぞ!」

「脅迫の罪も追加ですな」

 リーと呼ばれた男は肩をすくめた。

 少年達は後ろからの怒号と板挟みになり、中には今にも泣き出しそうな者すらいた。先頭の女性は臆することなく、前方を見据えながらよく通る声を発した。

「我々は新衛隊。皇国陸軍総統府直属の専門部隊だ。少年少女よ、我々は君達を助けに来た。逆賊の排除が終わり次第全員解放する。もう少し耐えてほしい」

 女性のすぐ後ろにいる男が荘厳な装飾を施された旗を取り出し、石突を床に突き立てる。キン……と、小さな金属音が響いた。その場にいた全員がそれを食い入るように見つめた。破落戸達はうろたえた。

「おい、あれ……」

「……御旗だ。クソ、あいつら本物の官軍じゃねえか」

国皇こくおう陛下の御名の下、君達は免罪され都での衣食住を保障される。都は今、君達のような若い人手を必要としている」

 少年達はさらにざわついた。

「あの噂、ほんとだったんだ」

「本当に助けてくれるんだ」

「どうしよう、どうしよう……」

 イェンと呼ばれた女性は、穏やかな声で言う。

「頼むから、こんなところで命を捨てないでくれ」

 それが決め手だった。彼らの心に最も響く言葉だった。ここに捕らわれて以来ほかの何よりも心が飢えていたから。

 少年達は刀を捨て、短槍を置き、駆け出した。黒服の集団の横をすり抜けていく彼らの表情は、どこか安心したようだった。

 対象的に、後ろに控えていた破落戸達はもはや怒髪天を衝く様相だった。それぞれが血で所々汚れ錆び付いた武器を握る。

「クズどもが。勝手なことしやがって!」

「ただじゃおかねえぞ、女ぁ!」

「後ろの男たちは全員殺せ! 先頭の女は後に細切れにして魔獣の餌にするぞ!」

 イェンが右手を耳の高さまで上げると、黒服達は一斉に獲物を前方に向ける

「分隊、目標、接近中の、8発連射、指命」

 破落戸達が怒号を飛ばしながら斬りかかる。

「撃て」

 命令と同時に黒服全員の獲物から連続で火が吹き、破落戸達の体の各所に穴が穿たれ、血が噴き出し、肉が抉れた。

「がっ!」

「ぎゃああ!」

 彼らは成す術もなく、糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ伏した。鼻の奥をくすぐるような煙と理の匂いが充満した。

 しかしリーと呼ばれた男が気付いた。

「イェン隊長、一人奥に逃げました。奴らに指示を出していた男のようです」

「ふん。リーダー格が一番クズだったか」

 イェンの首元からその場にいない者の声が発せられる。

〇一マルヒト、こちら〇二マルフタ。上層を制圧。送れ」

「こちら〇一マルヒト、了解。こちら目標を追跡中……いや新手が来た、一旦通信を切る」

 まだ息のある一人の破落戸が後ろに逃げようとするが、立ち上がれず靴が血で滑る。

「なんなんだ。その武器は……」

 彼は後ろから迫った脅威に気付く間もなく首が折られた。骨の折れる鈍い音がした。

 一体の魔獣が、そこにいた。獣の血と肉の腐臭が漂う。黒服の集団は警戒した。

「が、睚眦ガイサイだ。あいつら、あれを飼っていたのか」

 シウが呟いた。

 睚眦ガイサイ。森に生息する魔獣の一種で、蒲牢ホロウと比べれば俊敏さでは劣るが体格がさらに大きく、非常に気性が荒い。分厚い脂肪と筋肉の上をしなる針金のような剛毛が覆っている。前方を睨みつけるその見た目はヤマイヌのようであるが、体はさながら羆のようでもあった。

 そのすぐそばに、先ほど逃げた男が丸腰で立っていた。しかし睚眦ガイサイはそちらに見向きもしない。

「死ね。全員、死ね」

 リーが訝しむ。

「妙ですな。あんなものを人間がペットにできるとはとても思えませんが」

「それを調べに来たのだろう?」

 イェンが返した。彼女は首元の機器に語りかける。

「狙撃班、下層の通路、出口に近いところに賊徒の生き残りと魔獣が一体いる。そちらから狙えるか」

「目標を確認」

「通路内にまだ民間人がいる。一斑もうかつに動けない。跳弾は避けたい。空洞弾を使用されたし」

「了解。狙撃斑、目標、通路出口近くの魔獣。対蕾たいらい、各個射、指命」

 睚眦ガイサイが熊のように太い四肢を動かしにじり寄る。

 森で睚眦ガイサイに遭ったら諦めろ。

 それがここにいる子供達の共通認識だった。通路に近寄って食いつくように見ていた者達も、皆牢の奥に逃げている。

「分隊は待機。狙撃班、射撃開始。送れ」

「了解。狙撃班、撃て」

 空気を裂く音がした。肉と骨が抉れる音がした。魔獣が吠え、暴れた。

「効果を確認。続いて撃て」

 空気をつんざく音に続いて魔獣の体の各所から血が噴きあがる。肉が弾ける。廃城の見張り櫓から撃ちおろされた複数の弾は、獣の皮膚を貫くと同時に弾体の先端部分から花開くように裂け、凶悪な形状へと変化して肉をさらに大きく抉りながら進む。魔獣は経験したことのない痛みに吠え、近くの牢に体当たりしだした。さらに肉が弾け抉れる音が続く。

 しばらくして睚眦ガイサイが空気をつんざくような断末魔をあげ、その巨体が倒れた。死骸を中心に赤黒い血だまりが形成される。

「狙撃班、撃ち方止め」

 魔獣の傍にいた男は目の前の巨大な死骸を見つめながら困惑した。

「馬鹿な。馬鹿な。こんなことが……。槍が通らん魔獣相手に、どうやって。お前ら都の人間は、ほ、本当に神代の魔法が使えるのか」

 イェンが軽蔑の目線を向ける。

「我々は先人の知恵にあやかっただけだ。さあ、両手を頭の後ろで組んで、その場に伏せろ。クズが」



 黒服の一人がハルのいる牢の鍵を開け、入ってきた。医者を称するその男の応急処置を受けた。そこから先は、まるで夢のように記憶が混濁していて、よく覚えていない。

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