戦場における日記や日誌について
南京渋多(プロテスティア)
【史料の蓋然性】は、それほど高くない。
日記や日誌をつけておられる方は多かろうと思うが、通常、その日にあった1日の終わりにつけられることであろう。
だから、日記や日誌とつくのだが、これが戦場だと、辛い行軍後の酷い疲労と睡眠不足の後や、夜間警備、夜間戦闘中であると、当然ながら日記どころではない。
個人の体力や精神状況で日記をつけることが不可能になるので、後日纏めてということになる。連隊の日誌も同様で、後日に改めて記載したりする。
その際に起こるのは、日付や出来事の誤記憶である。
過去の【史料】としての【日記】や【日誌】を読む際には、それが【何時】書かれたかも【考慮】に入れなければならないし、【正確】かという事も【疑問】を持ってみる必要がある。
第16師団=>第30旅団>=第38連隊の戦闘詳報でも、10〜12日に同連隊第10分隊が、尭化門近辺で7,200名(将校:70名、准士官・下士官:7,130名)の捕虜を得たと【戦闘詳報】に記載しながら、後日の14日の南京附近の戦闘詳報でも同10分隊が14日に同エリアで7,200名(将校:70名、准士官・下士官:7,130名)の全く同じ内訳の捕虜を得たと記述している。
これに関して、第38連隊の上位司令部である佐々木旅団長は、このような大戦果を【回想記】に記して居らず、最上位の16師団長の中島今朝吾中将は、後日聞いた話として【13日】の日記に、7,200名の捕虜を得たことを聞いている。
この空白の日数は如何なる事か。幕府山で有名な第65連隊が含まれる山田支隊は、旅団自ら14日にわざわざ調べているし、捕虜を得たことの大戦果として報道にも残っている。
佐々木旅団長の【六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サス】の命令は、12月14日午前4時50分で、戦闘詳報では【14日】の【南京附近戦闘詳報】に記載されている。
しかも、14日の第10中隊が尭化門附近を守備している最中に、【午前8時30分頃】数千名の敵白旗を掲げて前進して午後1時に武装解除し南京に護送した。
時系列を整理しておく。
①10日〜12日において、第38連隊第10分隊が尭化門附近で、7,200名を鹵獲。
②13日に、中島今朝吾中将がその日記に、後日聞いた話として7,200名を書いている。
③14日の午前4時50分に佐々木旅団長が【捕虜を受け付けるな】の【命令】をだしている。
④14日の午前8時30分頃に、第10中隊が又再び尭化門附近で全く同数の捕虜を得ている。
中島今朝吾師団長も知らない14日の話となり、【戦闘詳報】の記載として、【記録】としては、かなり混乱した整理できていない記述になっている。
又、捕虜を受け付けるなとの命令を出しているにも関わらず、【捕虜】を取っているなど、【命令】が行きわたっていなかったのか、それとも【師団】が了解を出したのかすら明確に判っていない。
中島今朝吾師団長の日記には14日の記述には、分散した兵の集結と敗残兵の処理で師団が忙しいとあるだけで、14日に【捕虜】を【受付】の命令を出したと言う事は書かれていない。この捕虜が【尭化門】の捕虜かどうかは判らない。当時、太平門で鹵獲した捕虜1,300名の一部が、手榴弾を投げて抵抗した為に直ちに殺害したので、その事を指しているのかも知れないからである。
つまり、これらの【史料】からでは、本当に【捕虜】を【得た】のかどうかも疑問である。
14日の戦闘詳報の記述には、【南京城】へ捕虜を送致したとあるが、何処で、どの部隊が受け付け、管理したのかその辺も明確ではない。
歴史の【事実】を裏付けるものとしては、【第一次史料】が【重要】なのは、明らかだが当時の【蓋然性が高い】とされる【戦闘詳報】ですら、このような状態である。
これらを補う為、戦後に偕行社やその他で収集された【証言】があるが、【客観的】にみると、その証言を裏付けるものが他にあるわけでもないので、【信用性】の点で、【蓋然性は低い】ので【史料】としてはどうかと考える。
【補足】
幕府山の事件で、次の小野賢二収集日記について、少し疑問がある点をあげておく。
[黒須忠信]陣中日記
【date】
小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』P.336
氏名:偽名
所属:山砲兵第19連隊第三大隊大隊
階級:上等兵
入手経緯:本人より入手。
形態:手帳(横11×縦17㎝) 大部分片仮名書き。
12月16日抜粋(P.350 下段 14行目)
午後一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃蕩ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ、二三日前捕慮セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バガリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
山トナッテ居ル死人ノ上ヲアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒゝガン勇気ガ出テ力一パイニ突刺シタリ、ウーンヘトウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアツタ、××少尉殿並ニ×××××氏、×××××氏等ニ面会スル事ガ出来タ、皆無事元気デアツタ、帰リシ時ハ午后八時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。
[堀越文男]陣中日記
【date】
小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 P.57
氏名:偽名
所属:歩兵第65聯隊>本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
形態:ノート(横12.5×縦18.5㎝) 縦書き
12月15日(P.79 上段 2行目)
午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥にでかける、何も無し、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。
揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づゝ一度に行ふものなり。
この二つは、日付は違うが、同じ魚雷営のものでは無いかと考える。それ以前に他の【処刑】についての史料と理由が無いからである。【理由無い】状態での【捕虜】殺害は、ことに大量になると【問題】で有ることは、投じても旅団長や連隊長レベルでも判っているはずである。
30、40名づつ、340名づつかで随分違うが、おそらく前者であろう。
すると、他の日記では午後3時に連隊が決断したこと、夜の午後10時に処刑に言った兵士が帰営していることが複数で書かれていることを信用すると、3,000名とか上限では7,000名を殺害するようなことは現実では不可能だったのではないかと考える。
第三大隊が処理したとのことだが、他の警備や徴発へ居員も居るので、1,000名未満の兵員数では、6時間で行えうるかどうかは武器・弾薬の面からも判断が分かれるだろう。
ちなみに、老人・子供という判断は、あくまでも【黒須】という人物の見た印象に過ぎないと言う事も考慮に入れる必要がある。
又、当時少年兵(子供)は確認されている。
戦場における日記や日誌について 南京渋多(プロテスティア) @sibutanon
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