第56話 絵本

 最近、遠足出発の前日は図書室へ行くのが僕の習いになっている。早く寝ようとか出征に備えろとか言う体と頭を説き伏せて、遠い図書室へえっちらおっちら出向く。

 返却期限に余裕があっても、初めての遠足のときみたいになにがあるか分からない。またペナルティで借りられなくなったら嫌だし、こうするのが安全だ。

 とはいえ、食事にしろシャワーにしろ、全てが後回しにされる学兵一年の夜は短い。いっそ時間を作るためにシャワーを省く手もあるが、明日から数日間シャワーと無縁の生活になることを思うとそれもどうかと思うし。

 予定より遅くなってしまった時間を気にしつつ、僕は図書室へ入った。借りていた本の返却手続きを済ませ、さて次の本はなんにしよう。

 結構通っているのだけど、未だにどこになんの本があるのかも分かりきっていない。とりあえず目についた本を適当に借りるだけだ。それも物語とかよりも写真の多い図鑑系が多い。文字ばかりの小説は読んでいても想像できないことが多くてちょっと苦手だ。

 どの辺へ行ってみようかときょろきょろしていた僕は、立ち並ぶ棚の合間に見知った背を見た気がした。あれっと思いながら追いかけてみる。やっぱりその背はアルだった。

 おや、珍しい。というか、図書室で見るのは当然のように初めてだった。前に図書室の話をした時も興味なさそうだったし。

 声を掛けてみよう。何かを探すように本棚を縫って進むアルの後ろ姿をさらに追いかけた。アルはまだ僕が行ったことのない棚へ向かっていく。そして足を止め、本の物色を始めたようだった。アルも本を読むのかと僕は嬉しくなってうきうき近づいた。

「アル」

 図書室だから大きな声を出してはいけない。十分に近づいて肩を叩きながら声をかけたら、その肩はびくりと跳ねた。

「――っだ、アオイか」

 振り返ったアルは見開いた目で僕を認め、そしてなんとなく気恥ずかしそうに顔を背けた。

「アルも遠足前に本を借りに来たの?」

「いや、ちょっと見に来ただけ。借りるつもりはないけど」

 ぶっきらぼうに言って、なんだか誤魔化したいみたいだ。別に僕はアルが本を借りていたっておかしいだなんて思わない。からかったりはしないのに、アルは笑われるとでも思ったんだろうか。

「ふうん。ここ、何の棚? 面白そうな本はある?」

 折角だからアルと本の話がしたかった。けれどアルはやっぱり気まずそうに視線を泳がせる。

「いや、ここのは、お前が読むのとは違うだろ」

 ……アルのことだからエロ本だったりするのか? でもそれなら、アルはむしろ勧めてくるんじゃないかとも思う。

 どういうことか分からないまま黙ってアルを見ていたら、とうとうアルは観念したかのような深いため息をついた。

 棚から一冊を抜いて見せる。

「ほら。ここのはだいたい絵本。小さい子供が読むやつだよ」

 大判の表紙いっぱいに絵が描いてある本だった。あまり絵本に馴染みのなかった僕は興味を引かれ、自分でも一冊引っ張り出してみる。中もたくさんの絵があって、文字も大きな本だった。しかもどういう話なのか、二本足で歩く動物っぽいものがたくさん描かれている。こういう本もあるのかと僕は感心する。

「面白そうだね。もしかして、アルも文字を覚える気になった?」

 絵本で字を学ぶつもりなのかと思い聞いてみたが、アルは苦笑して首を横に振った。

「今さら覚えてもしょうがないしなぁ」

 しょうがなくはないだろ。むしろ覚えろよ。

「いつも遠足の日誌とかどうしてるのさ」

「え、日誌? 俺、数字は分かるから、それで日付書くだろ。後は『異常なし』だけばっちり覚えたから、それを書く」

 それ日誌違う。まぁいいけど。

「ほら、アオイ。本を借りに来たんだろ。時間なくなるぞ。お前はいつもどの棚見るんだよ?」

 アルが僕の背を押して歩きだそうとする。僕は慌てて押し止めた。

「え、待って、アルは本は?」

「だから。俺は借りに来たんじゃないから。お前の本見に行こ」

 ぐいぐい押してくるアルに僕はさすがに様子がおかしいと思う。

「アル。もしかして、僕なにか邪魔した?」

 借りに来たのでなくても、何かあったから図書室へ来たんだろうし、絵本の棚もわざわざ探していたように見えた。ここに何か用があったんだろう。でも僕が現れたせいで用が果たせなくなったに違いない。

「僕は一人でどっか行くからさ。ちゃんと本見なよ」

 なんせ明日から遠足だ。当分ここには来られない。あるいは、もう二度と来られない可能性も、あるのだ。僕なんかが声を掛けたせいで、もしアルの心残りにでもなったら本当に申し訳ない。

 でもアルは笑った。ちょっと困った顔で。

「いや、俺の用はもう済んだから」

「そうなの? 来たばっかなのに。本当に?」

「本当だって」

 アルは絵本の棚を振り返って言った。

「なんつーか。小さい頃に親が読んでくれた本ってここのなんじゃないかって。前にお前が図書室の話をしてたときに思ってさ。今日なんとなく確かめに来る気になっただけだし」

 よく分からないけれど、アルにとっては思い出の本なのかもしれない。

「あった?」

 アルが小さく頷く。

「うん、あった。ここのだった」

「一冊ぐらい、借りていけばいいのに」

 本を返しに行かないといけないから死ねない。そう言うために、軍人は出征前に本を借りていく。

「いいよ。必要ないし」

 アルの短い返答には主語がなかった。たぶん読めない本は借りる必要ない、ってことだろう。でもなぜか、僕にはアルが生きて帰ってくる必要なんかないと言ったように聞こえた。

「確かめに来る必要も、別になかった。また明日から戦場へ出られるんだから」

 アルにとっての戦場は一体なんなんだろう。あまりにも無邪気に喜ぶアルに僕は言い知れない不安と疑問を思う。

 もしアルが戦場で死ぬことを望んでいるのだとしたら。僕は黙って死なせるより他にないんだろうか。

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