第15話

消えた稀少な「やゆよ」は戻ることはなかった。もちろん、何度も、何度も会場内、特に舞台の溝や本部から舞台へつながる道すべてをくまなく探した。高温多湿の猛暑日が続いている。歴史的絵画並みの厳正な保存をしなければ腐敗が進行するのを知っていて、係員らは全国大会終わってから毎日のように探し続けた。コンサートホールはそれまで通り安っぽいかな文字が使用されている。


ひょっこり現れたのは担当者の柳田だった。大会が終わって二日後の事だった。


突然の体調不良だった事を猛烈にアピールし、内縁の妻、芳長さゆりも電話で会話した事実を覆し「彼は体調を悪くし、主任さんや刑事さんと電話で話してからわりとすぐに帰ってきました。でもあまりに体調が悪そうなので眠らせ、私は必死に看病するしかありませんでした。出かけたのも自分で薬を買いにいったんですって。仕事に家事にと追われている私に迷惑をかけたくなかったというんです」の証言。


当人も「仕事に出ようと家を出たが、それまでの緊張と激務、それにこの連日の猛暑でしょう。うちに冷房がなくて、まとわりつく暑さに眠れない日々が続いていたんです。薬を買いにいこうと思ったら、行きつけのやり放題があったんで涼むつもりでは入ったんです。ああいうところは冷房がガンガンですからね。入ればあの引き込まれる音についつい誘われて、ねえ。出来心ってわかるでしょう?でも打っていたのはほんのわずかです。やっぱり、いや、冷房が体調を悪化させたのかなあ、辛くなったのででゆうやけ公園で休憩しました。しかし、一度、悪寒を感じた体はみるみるうちに体温を奪い去ったので、行きつけのゆの湯で暖まろうと行きました。言ってもまだその時点では仕事にいくつもりでした。遅れているのは承知でしたが、大事に温め進めてきたプロジェクトですからね。でも、湯冷めした体はいよいよガクガクと震え出し、なんとか家路について丸々二日間寝ていたんです」の一点張り。


「誰にでも一度はあるでしょう」これまで真面目すぎるほどに働いていた柳田への信頼は揺るがず、本部上層部も無断欠勤の件はすぐにはお咎めなかった。


柳田は「個人的に持ち出さないでしょう。僕が一番、その価値を知っていたんですよ。気が気じゃないです」柳田は主張を通した。持ち出し説は時間と共に薄れたが、無断欠勤と三文字が消えた偶然の重なりへの不信感は残った。




辞令:全国高校生合唱コンクール運営部副部長かな文字担当、柳田祐介を総務部勤務を命ずる


:全国高校生合唱コンクール運営部主任、

与裕也(よ ゆうや)を解雇とする


言い渡されたのは騒動から二ヶ月後だった。文部省とスポンサーからの相当の圧力がかかった結果、柳田は二度と高校生合唱コンクールに携われない部署へ格下げで済んだが、当日、責任ある立場として不甲斐ない対応しかとれなかった与は大半の責任をかぶり、代々木コンサートホールでの職を失うという厳しく不平等な処罰となった。


しかし、与が責任を取ってホールを去る事を条件に、高校生合唱コンクール全国大会は代々木コンサートホールの一つの目玉イベントとして伝統は引き継がれることとなり、旧式な文字の配列システムを完全撤廃し、近代的システムだけで運営することになった。


二度となくなるはずのない、常識的に考えても不思議なかな文字消失事件は再発することはなくなった。

失われた平安時代のかな文字を厳正にリメイクした貴重なかな文字は三文字を欠き、現存する文字職人に出来るだけ同じ性能の「やゆよ」を作らせたが、わかる人にはわかってしまう違いが残り、三文字の持つ本来の滑らかさは二度と聞く事もお目にする事もできなくなった。


本来の利用目的の宮内庁や、首相だけにかな文字らは使われ、文部省はいかなる貸し出し依頼も断るようになった。


新しい「やゆよ」を入れた貴重なかな文字も老朽化が進んだ上に、言葉足らずの首相による使用で、その質が疑われるようになり、バブル崩壊と共に利用されることなくなり、観賞用として保管され長い役目を終えた。


省庁や役人によって我が子のように大事に扱われ続けたかな文字。あの年の夏のコンサートホールへの貸し出しは大冒険だったろう。仲間三文字が不慮の事故で姿を消してしまったが、文字らは世間を知り、純粋な高校生らの張りのある空気に触れ身震いをしたはずだだ。


名誉ある三文字の死を、鑑賞用となったかな文字らが武勇伝として新調された「やゆよ」らに言い聞かせているのだろう。

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