アマビエ女はSNSで自撮りを晒す

夏目有紗

第1話 月波早苗、アマビエ女になる。

 息が苦しくなり、頭がぼんやりとしてくる。……あ、これ、死んだわ。冷たかったはずの水もぬるま湯のような温度になっていく。


 月波早苗。齢29。退屈な人生だった。岩手県の海辺で生まれた。父親の仕事の関係で小学生の時に東京に移住し、中学生までは住んでいたものの、両親の離婚を機に再び岩手に戻る。祖母の家で暮らしながら、公立の高校へと進学。凡庸な成績であったし勉学に興味が湧かなかったことからさっさと地元の企業に就職した。東日本大震災によりしばらく避難所生活で苦しんだとは言え、幸いなことに会社も存続し、比較的とんとん拍子に進んだ人生のはずであったが、田舎町で出会いも少ないこともあり、恋人はいなかった。小さな海町に結婚相談所などは無く、婚活アプリとやらをスマホに入れても田舎町だと言うと敬遠され、出会えた男達はことごとく体目的か、10歳近く年上なのに高卒というだけでやけにこちらを馬鹿にする奴。この世に奇跡やロマンスなんてものは無い。アラサーとしての結婚への焦りもあり、むしゃくしゃして海に向かって崖の上で「馬鹿野郎―っ。」と叫んだ瞬間、大きな波が襲い掛かりちっぽけな身体を丸呑み。海は先程まで穏やかな表情をしていたしこの高さまで波が届くなんて。どうせならあの腹が立つ男共を攫ってほしかった。


 自分の人生を走馬灯のように振り返りながら目を閉じる。水はうねり、とても泳げるような状態ではなく、苦しみたくないなら諦めるしかない。途端、急激に背中に圧を感じる。サメか何かに乗っかってしまったのか。食われたくないけれど、もうどうしようもない。


 ――背中を押し上げる水圧はどんどん強くなっていき、身体は急浮上していく。思わず、口からゴボ、と苦しい息が漏れる。と、顔の上を覆っていた海水が無くなるのを感じた。


「……うぇ。」


 自分の状態を理解できずに何とも言えない声を出し、目を恐る恐る開く。直後、海水が目に染みて鋭い痛みが走り、ぎゅうぅ、とつぶり直す。口の中に広がる塩っ気。太陽が海上を照らしているらしく浮かび上がった体に温かい光が落ちていくのに気づいた。


「な、何、」


 何が起きたのか。背中には丸いボールのような物があるのを感じる。まだ意識のはっきりしない中、低い男性の声が海の中から聴こえた。


「お前は何者だ。」


 慌てて背中にあるのが男性の頭部らしいと気付きひっくり返ろうとするが、海藻のようなもので身体は絡まれており、動くことができない。


「あ、あの、月波、です。」


 とにかく返事をする。男はどうも平気そうに答えた。


「そうか。私は妖怪だ。人間にはアマビコやアマビエなどと呼ばれているらしい。」


 妖怪。確かに水の中にいて平気そうに話しているし人外の者というのは納得できる。……ただ、


「聞いたこと無いですけど。」


 そう、海辺の町で暮らしていてもその名前には聞き覚えが無かった。海に潜っても平気で人間と同じ話し方をする生き物。もっとも姿は見えないのでテレビによるドッキリの可能性もある。いや、こんな田舎の垢抜けない三十路の女に仕掛けるドッキリなんて助走までつけて視聴率をゴミ箱に放り投げるような暴挙だと思うが。


 彼女の声に妖怪だという存在は自身について話し始めた。


 


 彼は生まれながらにして妖怪であり、海に漂っている。彼には流行り病を察知し、その姿をもって人々の病と闘う力を強くする能力がある。だが、神や妖怪などへの恐れ、信仰が薄い人々の前に現れても捕まえられてしまう。そこで昔、病が流行ってとても人々が自身を捕まえる力の無い時に一度だけ姿を現し、彼は言った。


『病が流行ったら私の写し絵を人々に見せよ。』


 人々は大いに持て囃し、自身の姿を書き写して広めた。写し絵だけでも十分な力があり、病は次第に収まっていった。病が静まると人々は関心を失い始めたが、写し絵だけは想像上の生き物として広まっていた。もう新たな流行り病に悩まされることはないかのように思われた。しかしそこで悲劇が起きた。なんと壊滅的に絵心の無い者が書き写してしまったのだ。お陰で写し絵の力は失われ、人々は再び流行り病の恐怖に怯えることになった。




「……絵心無いのは何だか可哀想だけど同情する気が起きないわね。」


 呟くとふむ、と彼は同意し、言葉を続けた。


「お前をこのまま助けてやろう。その代わり、暫くお前に私の代わりを務めてもらう。」




 海の藻屑となるか、妖怪の代役として生きるかと問われれば誰だって後者を取ると思う。速攻でイエスと答えた月波早苗の身体に絡まっていた海藻はするすると解け、背中にあった頭部らしきものは無くなったが、身体は沈むことなく安定していて、代わりに手足の自由が利かなくなっていた。それは先程の妖怪が早苗の身体を乗っ取ったということらしかった。塩水で痛くて開けられなかった目もぱっちりと開いている。


 妖怪に操られ、仰向けのままに元いた崖の近くの浜辺へと戻っていく。妖怪による海上遊覧は大変優雅で、浜辺に着きそうな頃には海に沈む夕日を堪能していた。新たな商売でもできそう。


「私の予知ではあるが、そう遠くない未来に病で国が静かになる。良いか、頼む。」


 脳内で声がした時、かかとに抵抗感を覚え、岸についたことに気付いた。いつの間にか身体は自由となっていた。声の正体は見当たらなくなっていた。




 びしょ濡れの状態で家に帰ると、祖母が台所でせかせかと料理をしていた。年を経て丸くなった腰。早苗は祖母の背中をさっと通り過ぎ、リビングで干してあったバスタオルとパジャマを手に取ると浴室へ向かう。


 祖母の家は奇跡的に震災にも耐えた。お陰で古い民家がそのままの状態で残っている。神棚も当時はお供えしてあったおはぎやらが床に散らばったが、神棚そのものは破損する事無く、今でもきちんと手入れされている。


 浴室の近くの神棚に視線をやる。その上に飾られた写真は叔父のもの。叔父は優秀だったらしく、医者として近所の診療所で働いていた。患者に対する態度が冷淡で結婚していたからとは言え、看護師の女性にも一切にこやかにすることないというあまり評判のよろしくなかった叔父だが、早苗には小さい時に遊んでもらった記憶がうっすらとある。アイドルになると言った幼い早苗に子供用のドレスも買ってくれた。もっとも、叔父は早苗が両親の離婚をきっかけに岩手に戻る頃には亡くなっていた。


 服を脱ぎ、カゴに放り込む。タイル張りの浴室に入り、シャワーの栓をひねると、ザアァ、と冷たい水が飛び出る。早苗は裸のまま手を水流の中に入れると、温まるまで待っていた。




 シャワーを浴び、祖母との夕食後、早苗は夜風に当たろうと、庭に置かれた簡素な椅子に腰かける。右手には缶ビール。


 祖母の家は下手したら一軒家を建てられるのではないかと思われるほど広いのだが、その半分は祖母の趣味である家庭菜園で埋め尽くされている。こんな天気のいい夜は、草木に囲まれながら月見酒をするのが一番。缶ビールを左手に持たせ、プルタブに右の人差し指を引っ掛け、力を入れる。――プシュッと良い音がした。そのまま口に缶ビールを近づける。


「これで二本めだろう。」


 男の声。アマビエのものだと気付く。早苗は夕飯時に既に一本開けていた。


「まぁまぁ。」


 良いじゃないの、と呟き、ぐいっと喉に流し込む。軽やかな苦みと芳醇な香りが口から喉へじゅわっと伝わっていく。安物のビールでも美味しい物は美味しい。


 そもそも祖母の前で飲むお酒は酔えない。早苗が二十代前半は小言程度のことを言うだけであったが、最近は、良い人いないの、という言葉ばかりをしきりに繰り返す。やめてほしいと頼んだところで理解してもらえないのは分かっているので止めようとはしない。ただ、その言葉を聞きながらの夕飯の味はあまりおいしいとは感じなかった。お陰で食事量が減ると同時に、夕食後にひっそりと飲む酒やつまみの量は増えていく一方だった。


「ふーう。」


 満足げに声を漏らす。祖母はさっさと寝たのだろうか。


「約束は守ってもらうぞ。」


「あー、分かった、けど、何をすればいいの。」


 夜風で少し熱を帯びた頬が冷やされ、少し冷静になる。ビールを今度は味わうように一口飲み、口の中で揺らす。深い闇の中ぽっかりと浮かぶ月の明かり、空に散らばる星は酔いもあってか幻想的なものに見えた。今なら何でもできる気がする。


「有名になってもらう。」


「分かったーっ。」


 酔っ払いの即答に姿も見えないアマビエが笑った気がした。




 小さい頃にアイドルになりたかったのは可愛くなりたかったから。有名になって皆に愛されたかったから。お互いに喧嘩や不倫ばかりしていた両親が仲良くなってほしかったから。アイドルになればきっと皆幸せになれる、と信じていた。


 朝、目が覚めた早苗は頭に鈍痛を抱えながら起き上がる。二日酔い。もうそんな夢とは程遠い29歳、肌が荒れてきているのは薄々感じていたのだが、アルコールにも弱くなってしまったのか。まだそんな年じゃないと思っていたのだけれども。


「さぁ有名になってもらうぞ。」


 朝から元気そうな男の声に、えっと高い声をあげた。――あ、アマビエ。


「待って、なんでそんな話になったの。」


「昨日全部話したじゃないか……。」


「ごめん、全っ然覚えていない。」


 きっぱりとした否定にアマビエは呆れたように昨晩の話をした。


 


 アマビエ自身が姿を現しても新種の生き物として捕らえられかねない。そこでアマビエは早苗に取り憑くことを閃いた。今の早苗はアマビエが取り憑いている状態であり、早苗の姿はアマビエの姿と同じ力を持つ。つまり、早苗の姿を人々が見ることで、人々は病に打ち勝つ力を手に入れることができる。もうすぐ流行り病が押し寄せるような予感がするのでそれまでに自身の姿を人々になるべく見せて回ること。そのために有名人になってほしい――。




「……なんで私に取り憑いたの。」


「溺れていたから助けたというのに。」


非難を帯びた早苗の声にアマビエは悲しげに答えた。


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