インビジブル
No.2149
第1話
森部高校第二体育館。
永原慶介は台の端にラケットを置き、顔中に浮かび上がった汗をハンドタオルで拭き取った。
体育館横四か所にある鉄の引き戸は全て開放されている。しかし、快晴に恵まれ風もない八月初旬の今では何の効果もない。夏暑く冬寒い木造の第二体育館の中は、蒸すような嫌らしい暑さに支配されていた。永原は暑さにはそこまでは弱くない自負があったが、汗っかきであったので夏の練習中は汗を拭く時間が欠かせない。
顔に押し当てたハンドタオルをハーフパンツのポケットへ押し込む。永原の目の奥で、先ほどまで見えていた景色が再度像を結んでいく。
体育館の一角には、年季の入った卓球台が二卓置かれている。一方は永原の同級生である茅場公一と一つ下の花岡智哉が球を打ち合っており、もう一方は永原と彼の同学年の姫沢尊が練習に使っている。二人のコートを分かつネットの下方には、オレンジ色の卓ピンポン球が台の傾斜に沿って漂うように転がっている。
姫沢の後方では、県内でも屈指の強豪である男子バレー部が顧問に檄を飛ばされながら練習に打ち込んでいる。
「慶介、ちょっと調子悪いんじゃない?」
縦方向に台を挟んで向かい側にいる姫沢は、永原に対して小さな笑い投げかけた。
「う、うるさいな・・・ちょっと暑さにやられているだけだ」
姫沢にほんのりとマウントを取られたのが悔しいのもあり、同時に姫沢ごときにシンプルだが正確に核心を突っつかれたことに対しての当て所なき怒りもあった。永原は自コートの端に置かれたラケットと自コートにあるピンポン球を荒々しく手に取った。
中学の時から愛用しているフォアハンドの柄を握りしめる。もはや体の一部であると言っても差し支えないはずなのだが、永原にはどこか違和感が感じられた。
「大丈夫か?練習はまだ続くし、あんまり無理すんなよ」
「なぁに。こんなんじゃへこたれないさ」
「そうか・・・それじゃあ、お言葉に甘えて続けるぜ」
あぁ、頼む、と永原が言うか言わないかのうちに姫沢はサーブを仕掛けてきた。姫沢の左手から浮かび上がったピンポン球が落下する途中、ラケットが宙を切り、強烈な下回転を与えられコートへ放たれる。
友人であり、長い間ライバルとして張り合い続けてきた永原には姫沢の手の内がすっかり見通せた。
こいつをネット際のツッツキで捌き、姫沢が次に打ち上げたところを間髪入れずにスマッシュで決める・・・これが永原の考えである。永原のプレイスタイルは一貫して前陣速攻である。自コートへ飛んできた甘い球を見切り、鋭いラインで攻撃を仕掛けることを得意としている。
姫沢の打った球が相手コートで一度バウンドし、ネットすれすれで永原のコートに侵入してきた。
永原は右足にぐっと体重を掛け、体をコートの上へ張り出した。永原は短い腕を一杯にネット際へ伸ばす。
もらった!
心の中で叫んでから、永原はバックハンドのラバーで球の下側を擦り、やはりネットすれすれで球を返す。着地点は相手コートのネット際。永原自身、完璧といえる返球だ。次に姫沢がやる行動とすれば、先ほど永原がやったのと同様にネット際まで体を滑り込ませ、ツッツキで返すことのみ。
だが、永原は知っていた。姫沢はネット際のプレイに弱い。
今回もまた奴はあたふたとして球が返せないか、あるいはぎりぎり間に合ったとて奴はバランスを崩す。そんなガタガタで高く浮かび上がった返球の先に待っているのは、永原の正確無比かつ目にも止まらぬスマッシュだ。永原は先ほど伸ばした体を正位置へと戻す。
しかし、ここで予期せぬことが起こった。
永原が見た姫沢は自信に満ちた顔であった。
「へへ、備えてないわけなかろう?」
姫沢は手首をスナップさせ、器用にドライブショットを打ってみせた。
「うわ、まじかよ!」
これまでの経験に導かれた球筋を予想して動いていた永原は面食らった。永原の足はばたばたと焦りでもつれた。それでも手を伸ばし、球が飛んでくると予想される場所へラケットを伸ばした。
・・・届け、届け!
しかし、ピンポン球はラケットに掠ることなく、永原の横側の空間を切り裂き飛んで行った。その勢いで永原はバランスを崩し、地面に体を叩きつけた。
永原は悔しさのあまり立ち上がれず、歯を食いしばったまま少しの間そこにうずくまった。
「くそ・・・畜生・・・っ!」
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