掌の小説
Lily
チョコレートケーキ
泣いていた。気がつくと、泣いていた。
そして、ここ数日は泣いてばかりいた。だから、周りの人は心配ばかりした。なかには、体調を気遣う人までいた。
彼と急に連絡が取れなくなってから二日後、本人の死体と対面した。すっかり変わって――誰だかわからないくらいに――しまい、冷たい体躯となった彼と。しかしそれは、もはや彼ではなかった。彼ではなく、二度と逢えない――触れることも、話すこともできない――という事実。それは目一杯あたしを悲しませ、どこまでも孤独にした。いっそのこと死んでしまおう、とも考えたが、死んでも彼に逢えないと思うと、瞬間、興味がなくなってしまった。
孤独。
四月十四日生まれ、そのくせ春が嫌いで、冬が好きだった。冬が近付くとだんだんいきいきしてきて、鍋をよく作ってくれた。おでん、すき焼き、水炊き、ふぐちり、どれも炬燵に入って、二人でつついた。夏の盛りなのが、ほんのささやかな救いだった。
どうしようもなく寂しくて、でも埋めてくれる人がいないんだから、友達も職場の同僚も姉妹も、やっぱり彼がいないとな、と思わせるだけで、どんどんどんどん寂しくなっていった。それで次第に身体が軽くなって、顔つきも変わっていって、生きているのか死んでいるのか、区別がつかなくなっていった。
周りの人間があまりにも、病院、病院、とうるさいので、黙らせるために行くことにした。一体どこを治療させるつもりなのかな、と思いつつ。
待合室は、驚くほど賑やかだった。くすんだグレーの、理に適っていないほど直角な背凭れが、座り心地の悪いソファに座り、小さくなっていた。客観的に見れば、あたしが一番の重症患者だった。周りにいる人をみるのが嫌で、テレビの方をみた。
海の向こうの、名前を聞いてもぴんとこない、遠い国が映っていた。溺れかけた象を、何十人もの人で助けた、というニュースだった。作り話にしてはあまりにできすぎた、真実にしてはほとんど嘘のような、すんなり納得のいく話だった。
溺れかけた象を、人間が――何十人もの――助ける。しかも必死になって。滑稽だった。噴出しそうだった。
あたしは診察も受けずに病院をでた。そのままの気持ちでケーキを買いに行った。特別な日、を作る天才だった彼が、その日ごとに買ってきてくれたチョコレートケーキ。特別な日、とは、何も誕生日や、クリスマスだけにとどまらなかった。むしろそんな放っておいても誰にでも訪れるそれには興味はなく、日々の生活のほんの些細なことを、彼は、特別な日、に昇華させてしまう。
適当に入ったバーで、目を瞑ったまま指を差して注文したカクテルが、びっくりするくらいおいしかった日、まだ目が覚めきらないまま、フライパンに割り落とした卵の黄身が双子だった日、拍子抜けするくらいに早く仕事が終わり、思わず二人で食事ができることになった日・・・。過ぎ去った日々の質量と温度。
家に着き、テーブルに一直線に向かい、すぐにひと口食べた。感にこたえたため息がでた。甘すぎないチョコレートケーキが、すっと身体に溶けていく。そのひかえめな甘さが、一口一口、あたしを温めていく。久しぶりに味わう――忘れかけていた――幸せだった。いつも隣にいて、一緒に過ごし、同じリズムで暮らしていた。同じものを食べ、お酒を飲み、一緒に眠る。
あたしは、あっというまにひとつを食べ終え、もうひとつを丁寧に冷蔵庫にしまった。
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