牛丼

浩美さん

牛丼

 夏だった。一年近く前のことなのではっきり覚えているわけではない。だが、そんなあやふやな記憶の中に一つだけぼやけずに、輪郭のはっきりしたものがある。それは何となく、ただ何となくなのだが『一生忘れないだろう」そう思わせるものだった。

 その頃は数学の課題に追われる日々を送っていた。中間テストと期末テストの課題を全くやっていなかったからだった。そのために部活に出ることさえもできなくなってしまったのだが、自業自得もいいところである。


 その週からは半日授業で私以外のみんなは午後からは部活動、無ければ帰宅、といった具合になっていた。私はと言うと、家に帰って自分が課題を進める様子というものが激しく想像しがたいものであったため学校に残って一人、図書室で課題を消化していた。

 一図書委員である自分としては、図書室は是非本を読む場所として使っていただきたいところなのだが、夏場の勉強は涼しい場所でないと捗らない。そんな、誰に言うでもない言い訳を考えつつも数学の問題を解き続けていた。


 その時、昼飯はまだ食べていなかった。食べない方が集中できることに気付いた。まさか数学の課題に追われながらそんなことに気付くことになろうとは、どうでもいいが予想外だった。自分の新しい一面に気付いたということで、それはそれで良いことなのだが集中するために飯を抜くというのは誰がみてもに健康に悪いのでやめた方がいい。

 四時頃になると流石に腹が減ってきたので、荷物を適当にリュックサックに詰め込んで帰ることにした。その日の朝は親が忙しく、弁当ではなく野口を1枚渡されていたので帰る途中にある。業界最大手のいい気分になるコンビニでおにぎりと肉まんを買って歩きながら食べた。そのコンビニは春から新しくできたもので便利なので今もよく利用している。そして余った分の金はもちろん私のポケットに入る。ありがたやありがたや。


 次の日もまた図書室にいた。なんと前の日に終わらせた分の課題があてのないかくれんぼの旅に出てしまっていた。確かに日頃から遊び心と旅心を忘れないことを信条にしている自分だが、自分の普段使っているルーズリーフにまでそんなことを強要した覚えはない。

 昨日のあの時間はすべて無駄だったのか、とそうは思いたくはなかったので、昨日見つけた絶食集中法を駆使して、やり終えたはずの分も含めた数学の課題を解き続ける。いっそ泣きたかった。が、泣いている暇が無いのは前述の通りだった。

 その日も四時頃に切り上げ家路についた。

その日は弁当を持たされていたのだが、もちろん図書館で食べるわけにもいかなかったので帰ってから食べることにした。腹は減っていたがいつもより足を早く進めた。むしろ腹が減っていたからだったかもしれない。

 駅から家まではいつもならば十五分といったところか、そこを十分かそのくらいで帰った。それなのに前の日通ったときよりもとても長く感じた。

そのことについて、なるほど相対性理論というのはこういう感じなのだろうか、などと無理に理系らしいことを考えたが、ただでさえ足らない頭を働かせるための燃料が足りていなかった。三歩歩いて考えるのをやめた。


 家に着いたら手早く荷物を降ろして、リュックサックの中から弁当を取り出した。家には兄がいたがその荷物を降ろしたリビングにはいなかった。電気が点いておらず、カーテンも半分閉まっていた。そのせいで夏にしては少々薄暗かった。そういえば朝開けるのを忘れていた、起きたとき開けておけと言われた気がする。そう思い返したがそんなことは全く本当にどうでもいいことだった。


 弁当は自分の部屋で食べることにした。理由は無かったと思う。

その部屋は自分の部屋と言っても、自分以外そこを「居る場所」として使わないだけのただそういう場所で、それにただでさえ壁としては薄っぺらなふすまさえも部屋に積み上げた新聞と広告のせいで閉まらなくなっていたので、世間一般にある部屋としてのプライバシーの保護機能なんてものは無いに等しかった。

 机(碁盤)の上で弁当を広げた。箸は割り箸できれいに割れた。やっと飯にありつけた。そんなことを思ってまず白米に箸をつけた。


 朝はいつものように六時過ぎに目覚めた。とてもいい気分とは言えなかった。朝食はランチパック、ツナのやつを食べた。胃がもたれたので多分朝食べるようなものじゃない。

 気付けば週末。長かった課題生活もようやく終わりが見え、その日のうちに先生に提出し、部活に復帰した。

 課題が終わってから提出するまでも長かった。課題は前述のとおりルーズリーフにやっていたのだが、課題を終えて職員室にいる先生のもとに持って行ったところ、ノートに貼れと言われた。今でこそホッチキスからカッター板、鉄工ヤスリまで何でもとは言えないもののいろいろ入っているリュックサックにも、この頃は糊の一つも入っていなかった。時間が惜しかったので近くのドラッグストアまで走って糊を買いに行った。本当は図書館にも糊は置いてあって、頼めばおそらく貸して貰えただろうが、自分のしかもサボっていた分の課題のために図書室の備品を使うのは流石に図書委員として気が引けた。その後なんとか先生に提出出来たのだ。


 その日は塾があったのだが、久しぶりの卓球で頭がいっぱいになっていた。要するに忘れていた。気付けば時間ギリギリ、まだ昼飯を食べないうちに五時半を回っていた。

 帰りの電車の中、昨日の昼食のことを思い出していた。

昨日の夕方、さあ食べようと箸をつけた白米は硬くなっていて箸が通らなかった。硬くて冷たくて箸を進めるのが億劫になるほど不味かった。おかず、ブロッコリーにツナを和えたもの、玉子焼き、から揚げ、冷凍の何か、全部変にぬるかった。ぬるくて不味かった。泣きそうになったが涙は出なかった。昨日は夕飯を食べなかった。食べられなかった。


 塾は化学の授業の日だった。酸と塩基、水素イオン濃度を計算してpH を出す問題を解いた。昨日の夜こみ上げてきた酸っぱいものは胃液だったのだろうかな、テキストのpHの表を見ながらそう思った。

 昨日の帰り道と同じように、その授業も嫌に長く感じた。食べないと集中できると言ってもやはり限度があって、有り体に言うと満身創痍になっていた。頭には何も入ってこなかった。そのせいで最近やった緩衝液の問題で pH が出せずに次の問題に進めなかったりした。


 授業が終わったのは八時五十分頃、夕飯はいつも通り買って食えとの事だった。

早く食べたかったので塾の近くにある早い安い美味い牛丼屋で食べることにした。

塾のある日はよくこの場所で夕飯を食べる。いつものように奥のカウンター席に着いた。

「すいません……」

自分でも驚くほどに小さな声が出てきた。当然その一回では気付いて

貰えなかった。

「すいません。注文いいですか」

「はい」

今度は若い店員が反応してくれた。

「牛ねぎ玉井、大盛り、つゆだくで…お願いします。」

「牛ねぎ玉井、大盛り、つゆだく、以上でよろしいですか。」

「はい」

お願いしますなんて普段は言わないのだが、この時は相当弱っていた。

程なくして自分の前に運ばれてきた牛丼に、生まれて初めて食べ物に、涙を流した。その時は熱い熱いなんて言ってごまかした。

もちろん熱いからなんかではない。温かくて美味しい食事が、体を、心を温めたからだったと思う。

会計を済ませて店を出る際、小声で

「おいしかったです。」

そう言って出た。気分がよかった。

最初のすいませんと同じように小さすぎて聴こえなかったであろうその一言は言ってしまえばただの自己満足だった。食べたものが牛丼である必要も無かった。でも、その一言を言わせたのは、ほかの何とも間違えようのないただ一杯の牛丼だった。

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牛丼 浩美さん @Tanaka-hiromi

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