第44話γ 帰るべき場所は


 達海が目覚めたのは朝早くだった。

 美雨が眠るのを見届けようと思っていながら、先に眠ってしまったことを少し後悔する。

 美雨は、そこで確かに瞳を閉じていた。穏やかな呼吸、静かな流動が確かな生を伝えている。


「...さすがに、起こすわけにはいかないか」


 そう思って、達海は一人ビルの外へ出た。万が一にも、敵襲があってはいけない。その見回りを兼ねての外出だった。


 もう冬が近い。吐く息はわずかに白く、しかし確かな冷たさを告げる。マフラーの一つ欲しいところだが、あいにく戦場にそのようなものはかえって不便なものとなってしまう。


 少し体を震えさえ体温を捻出し、達海は近辺を走り出す。

 気配はない。


 少し走ると、大通りに面した路地へと出た。


「...」


 達海が、そこが自分のいる世界と白飾の境界になっているように思えた。この路地より向こうは、何のゆがみもない普通の街、白飾。こんな戦いだらけの世界とは縁遠い世界である。


(今の俺にあっちに帰る資格はないよな...)


 少なくとも、それにはやることがまだたくさんあった。

 これ以上は無駄足と、達海は踵を返して引き返そうとする。



「達海か?」



 そして、それは一瞬。達海の耳元を確かに声がかすめた。

 そして、それは達海の忘れようもない声だった。


 自分から遠ざけて、でも、心のどこかでずっと聞きたかった声。

 それでいて、今一番聞きたくない声。


 しかし、達海は振り返った。



「父...さん」


 自分の父親が、確かにそこにいた。

 達海の父親はわずかに悲しげな瞳で、達海をしっかりと見つめていた。

 

 つかつかと、達海の父親は達海へ歩み寄る。

 そんな状況で腰に掛けた陽縁を隠すことは出来なかった。


 明らかに、バレてしまった。


 ほどなくして、達海の父親は足を止めた。その距離にして約二歩分。拳骨を飛ばすには十分な距離だった。

 恐る恐る達海は問いかける。


「...出勤?」


「まあな。おかげさまで、仕事からは逃れられない身分なんだ」


 明らかに無理をしながら、達海の父親は息子に愛想笑いを浮かべた。

 しかし、そんな言葉を達海は欲していたわけではなかった。


 こんな状況である。

 咎め、叱責、拳骨、そうしたものを喰らった方が達海はまだ気が晴れた。


 けれど、達海の父親は何も言わなかった。ただ達海の目をまじまじと見ている。そして、ほどなくしてそれが、言葉を探していることだと気づいた。


 そして、ようやく言葉が見つかったのか、達海の父親は一つため息のような息を吐いて、達海を迷い眼差しで刺した。


「...元気にしてるのか?」


「元気には...してる。大丈夫」


「そうか。...俺はてっきり、消えたって思ってたよ」


 複雑な感情をひっくるめて、それでも達海の父親は笑う。


「...息子の危険な状態に気づいてやれなかったな。俺は。母さんは」


「いや、それは俺のせいで...」


「それでも、自分の大好きな息子に刀を握らせるような世界ではないと思ってた」


 

 その言葉には少々怒気が籠っていた。しかしそれは達海あてではなく、自分あてに。



「この街は闇が多い。知ってて俺たちは生きてるつもりだった。それでも...こんなに身近な物とは思わないじゃないか」


「父さん...」


 握られた拳が震えている。いたたまれなくなったのは達海だった。


 今ならすべてを打ち明けれるような気がしていた。むしろ、どこかそうしたい気持ちがいっぱいいっぱいだった。


 全て吐いて、苦しいことから逃げられたら、それはどれだけ楽だろうか。


 ガルディアという組織があって、ソティラスという組織があって。

 コアという存在が街に存在していて、それをめぐって戦っていて。


 達海は、自分の父親が母親が、そのような人間でないことをとうに知っていた。

 間違いなく二人は、日常にいた。


 もう戻れないと腹から割り切っていたはずの日常をもう一度目の前にして、達海の心は揺らいでいた。


 けれど、踏み出すことは出来なかった。


(それでも俺は...まだここで戦わなきゃいけないんだ)


 託された思いは一つではない。

 同じ思いを託され、世界を変えてくれと託され、自分が殺したような人間の思いも拾って背負って、達海はそこに立っていた。


 だから、次の言葉はすんなり出た。


「父さん、俺は大丈夫だから」


「でもな...」


「...まだ、ここでやらなきゃいけないことがあるんだ。見つけないと、誰も悲しまない世界を」


「それをお前ひとりで?」


「一人じゃないよ。いっぱい人がいる。正しい世界の在り方を考える人間が、この世界にはたくさん」


「そうか...お前はもう」


 どこか感慨深そうに、寂しそうに、達海の父親は呟いた。その続きの言葉こそ達海は聞いていないが、大まかにその言葉は予想できた。

 だからこそ、それに答えることもまた造作もないことだった。


「俺はいつでも二人の子供だよ。またいつか、そっちに帰れる日が来ると思う。というより、俺がそうしたいんだ」


 心の底から、俺は大丈夫だよ、と達海は笑う。


(最後にこうやって父さんに笑顔を見せたのはいつだったっけな...)


 別に嫌いだったわけではない。けれど、歳が進むにつれ、その距離は次第に開いていってしまった。


 戦いに身を落として、他人の親子愛を目の当たりにして、それが引き裂かれる場を目の当たりにして、ようやく達海は自分の両親に素直になれた気がした。


 今ならだれよりも、素直な息子で荒れた気がした。

 だが、そんな時間も終わらなければならない。


 何度も言うように、達海にはやらなければいけないことがまだあった。

 こうして戦いに何のかかわりもない人間に時間を割くことさえ、許されない行為なのである。

 

 もしかしたら、これを監視されているかもしれない。また咎めを受けるかもしれない。

 だったら、ますます長居はできないでいた。


 だから、しまいにしなければならない。

 ここでちゃんと、お別れを言わなければならない。


 サヨナラではなく、またねを。



「...父さん、俺、行くよ」


「誰かと戦って、誰かを傷つけるのか?」


「...うん、そうなると思う。そうするしかないんだ。今の俺は」


「なあ、達海。最後に一つだけ確認しておきたいことがあるんだが...いいか?」


「いいよ」


 この時間を終わらせなければいけないことを達海は重々承知していた。

 だからこそ、大事な言葉の一言一句、全てを大切にしたかった。


「今、お前がそうしていることは...お前の意志か?」




 その一言には、全てがかかっている。

 だからこそ、達海は自分の持てる重さの全てを含ませて答えた。



「うん、そうだよ」


「そうか」


 少しだけ残念そうに達海の父親は頷いて、達海にもう一歩歩み寄った。

 そして、手を差し出すように促す。達海は従うように右手を差し出した。

 

 それを受けて、達海の父親はその手にペンダントを置いた。


「これは?」


「俺のペンダントだ。昔、母さんからもらった、な」


「それを...どうして俺に?」


「お前とはもうしばらく会えそうにないからな...。せめて、心だけでも傍に置いていてほしいんだ」


「...父さん」


「分かってる。ただの気休めなのは知ってる。だけどな、これは親の意地ってもんだ。悪いな。俺って親馬鹿でよ...こんなことしかできないんだ」


 それでも、父親からのギフトは達海にとって十分すぎるものだった。

 手触りは軽いペンダント。しかし、渡された物の重たさを達海はしっかりと認識していた。


 自分の愛する人間の思いが、確かに詰まっていた。


「ありがとう、父さん」


「それじゃ、俺も行かないといけないからな。俺の戦いにな」


 はっはと達海の父親は笑い飛ばす。しかし達海は合わせることなく、少し重鎮とした態度で、しっかりと告げた。



「...必ず帰るよ。母さんにも会いたいし」


「ほーう、なかなかかわいい事言うじゃないか」


「それに、父さん、母さんに合わせたい人がいるから」


「おっ、彼女か?」


「まあ、そんなところ。結婚するって約束してるんだ。...まあ、もうしたけど」


「そうか」


 達海の父親は、馬鹿にした振る舞いの素振りすら見せず、その言葉を肯定して、微笑のまま二三度頷いた。


「結局...まあ、なんだ。お前が元気で、幸せになろうとしてくれているなら俺は、母さんは一番だよ。だから...頑張れ、達海。負けるんじゃないぞ」


「うん。...ありがとう」



「それじゃ、行くとしますか」


 小さくあくびをして、達海の父親は踵を返し、元の道へと引き返して日常世界へと戻っていった。非日常の世界に、達海は一人残る。


(今はまだこれでいい...。いつか、あっちに帰れる世界にするんだ。美雨と、二人で)


 争いが無くなるなどと言うのは妄言に近い。この世界で戦う人間は誰もがそう思っている。

 けれど、達海はそれでも抗う。


 

 ふと、達海は自分の背後に気配を感じた。背中を預けれる優しさに溢れたその気配は、どうやら少し前からいたようだった。


 目も見ず、振り返らずに達海はその名を呼ぶ。


「...さすがにまずかったかな、美雨」


「今更四の五のは言わん。けど...。そうか、あれがお前の」


「うん、親父だよ。ただのサラリーマン。それこそ、この世界とは何の縁もない人間だ。だからまあ、まずかったのかもしれないけど」


「いや、いい。...優しそうな人だったな」


「だろ? ...今になってわかる。自慢の親父だよ」


「そうか」


 顔を見ずとも、その表情が晴れていたことを達海は分かっていた。それほどまでに、今の美雨は言葉を介さずとも直接的に達海とつながっていた。



 美雨は足を進めて、達海の隣に立つ。二人手を取って、人の流れだす街を遠目に眺めた。


「...行こうか」


「ああ。今はまだ、私たちはあそこに戻れないからな」





 それ以上の言葉はいらない。

 しかし覚悟は、確かに繋いだ手が紡いでいた。








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