パスハの南(17)
すっかり慣れて、潮の香りを感じなくなっていた。
湾岸での滞在も一ヶ月を超え、あらゆる予定を消化し尽くした。
帰郷の時だった。
出港の支度を調えて潮を待つばかりとなった船上で、ジェレフは舷側からサウザスの街並みを遠望していた。
初めて降り立った時には、ひどく奇妙に見えたこの都市も、やっと住み慣れた頃合いだった。いざ離れるとなると、なにやら後ろ髪引かれる思いがするから不思議なものだ。
滞在中、エル・サフナールは責任を感じてか、族長ヘンリックの正妃のところを時々訪れ、話し相手になっていたようだ。深入りしなければいいのにとジェレフは気を揉んだが、一度癒やした相手が気にかかるのは治癒者の習いだ。自分にしても、彼女のことをとやかく言えるようなものでもなかった。
ジェレフは正使として族長から仰せつかった公務をこなす傍ら、空いた時間にはなるべく、イルス・フォルデスの館を訪ねるようにしていた。いかにして竜の涙と戦うか教えていけと、族長ヘンリックと約束したせいだが、王族らしからぬ気さくな少年が気に入ったのもあった。
彼には家族もいたし、世話を焼く侍従もいる。友人もいた。しかし同じ死を待つ境遇の仲間はいない。
それが彼と自分たちの決定的に違うところではないかとジェレフは思っていた。
いつやってくるか分からない自分の死は、ジェレフにも恐ろしかった。だがそれに心を支配されないのは、これから行く道を自分に示してくれる兄たちがいて、自分が模範を示すべき弟たちがいるからだ。
仲間達とともに歩み、英雄(エル)の称号を冠して呼ばれる自分の名を辱めぬように生きることには、日々新たな感動があった。ともすれば、自分は石を持って生まれてきて、むしろ幸せだったのではないかとすら思える。
そのような世界がこの世にはあるのだと、彼に教えていくことが、自分がこの街に遣わされた理由だろう。
ひとりで戦わなくていい。
確かにサウザスとタンジールは遠く離れた別世界だが、順風を帆に受ければ、たった一月の船旅だ。皆いつも、すぐそばにいる。
「これは船酔い除けのお守りだそうです」
すでに顔面蒼白のエル・サフナールが、縄を編んだような素朴な組紐を、ジェレフの眼前にさしだした。
「首からさげるのです」
買い込んだ真珠で飾られたきらびやかな胸元に、エル・サフナールはその一見ごみのようなお守りを大事そうに下げていた。
「あなたの分も買ってきてさしあげました。どうぞ」
「そんなもの本当に効くと思っているんですか、エル・サフナール」
出航前からすでに船酔いしている同士だった。
渋るジェレフの手に、お守りを押しつけて、サフナは今にも倒れそうな儚い風情で、舷側にとりついた。
「効かないでしょうか……」
「俺もいま最悪の気分ですが、あなたがそうして苦しんでいるのを見ると、正直言っていい気味です」
「ひどいわ……わたくしがあなたに何をしたというのですか」
色々したんだろ。
結局思い出せなかった例の夜のことを思って、ジェレフは内心でサフナを罵った。つくづく、とんでもない人だった。それでも無事にタンジールに帰れることになって良かった。
「ジェレフ、これ書けたけど。いつまで書くの」
使い古した感のある帳面をひらひら振り回しながら、エル・ギリスが舷側にやってきた。相変わらず船酔いとは縁のなさそうな、憎たらしい極めて健康そうな顔をしていた。
「言行録か……」
頷きながら帳面を渡してくるギリスから、それを受け取り、ジェレフは中を開いた。なにかを読むような気分ではなかったが、とにかく自分が言い渡した仕事なのだから、面倒を見ないわけにはいかない。
たまたま開いたページを、ジェレフは読んだ。
そこにはこう書かれていた。
某月某日。猫がいた。ジェレフと酒を飲んだ。ジェレフがサフナに犯された。もう帰りたい。
「……ギリス」
とっさに言葉がなくて、ジェレフは悪童の名を呼んだ。
「誰が旅日記を書けと言った」
「え、言ったじゃん、ジェレフがさあ。旅の記録をつけろって」
「言行録はな、後任の者が旅するときに参考になる事柄や、後世に伝えるべき事柄を書くんだ。お前はエル・イェズラムの言行録を参考にしてまで、いったい何をやっていたんだ」
「俺はジェレフがサフナに強姦されたことを後世に伝えたいんだけどな」
ギリスが言い終えるのを待たずに、ジェレフは帳面を海に投げ捨てた。絹張りの表紙をはためかせながら、それは青い海に落ちていった。
「あっ、捨てやがった! 俺の旅の思い出を!」
「ごみだ」
海に吸い込まれていく帳面を見送るギリスの背に、ジェレフは言ってやった。
「あぁ、わたくしもう吐きそうです。いっそサウザスに残ればよかった」
舷側にすがってくずおれながら、エル・サフナールが嘆いた。
「なにか、なにか方法はないのでしょうか。この船酔いから逃れる方法は」
「酒でも食らえば、サフナール」
まだ悔しそうに海を見下ろしながら、ギリスがそんなことを言った。
名案だった。
どうせ酔うなら船にではなく、すっかり飲み慣れた海辺の火酒に酔っていたほうが、よっぽど気分がいいだろう。
「お前もたまには冴えてるな、ギリス。俺は船室で飲むことにしよう」
なんとなくふらつく足元を踏みしめながら、ジェレフは舷側を離れ、船室におりる細い階段を目指して甲板を行った。
「ひまだから俺もつきあう」
「わたくしも」
ギリスとサフナールがすかさずそう提案したのを、ジェレフは振り返った。
「いいえ。俺は戸に鍵をかけて一人で飲みます」
引き潮を告げる銅鑼の音が、異国の調べを鳴り響かせた。白い帆が順風を受けて、頼もしく張りつめた。ここから先、次に降り立つ時には、懐かしい砂の海の上にだ。
それまで、この筆舌に尽くしがたい連中とおさらばして、ひとりで引っ繰り返って酒を浴びているのだ。それがいい。とにかく疲れた。たとえようもないが、楽しい旅だった。
あとは白い帆に身を任せ、故郷で待ち受ける尖塔(ミナレット)に、フラ・タンジールと呼びかける時を、ゆったりと待つばかりだ。
詩人たちなら、お定まりの調子で、こう詠うだろう。
そろそろ物語の時は尽き、この勲(いさおし)はこれまでにて、英雄たちの戦いはなおも続く。新たなる物語は別の巻にて、息を呑み耳をそばだてて聴くダロワージの静寂に、いやなお晴れがましく響き渡るであろう。
そうして船はサウザスの港を離れた。
《英雄達の旅はこれで一巻の終わり》
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