第1話『幼馴染が引っ越してくる』

 ――明日、文香ちゃんが家に引っ越してくる。これからは文香ちゃんもここで一緒に暮らすことになった。


 父さんから教えられた『大事な話』の内容に驚いて叫びすぎてしまい、喉がおかしくなってしまった。

 帰ってくる途中で買ったボトル缶コーヒーを飲んで喉を潤し、気持ちを何とか落ち着かせる。


「す、すみません。大きな声を出してしまって」

「いいのよ、大輝君。文香がここに引っ越してくるのは明日だし、本人もそのことをちゃんと言えなかったみたいだから」


 もしかしたら、帰る直前に文香が俺のところに来たのは、家に引っ越すことを伝えたかったからなのかな。そうだとしたら「よろしく」というのは、「大輝の家に引っ越すからこれからよろしく」という意味だったのだろう。


「それにしても、文香が家に引っ越してくるなんて。この時期ですと……哲也おじさんの異動が理由ですか?」


 父さんもこの時期に異動があり、勤務先が変わったことが何度かあったから。ただ、父さんの場合は都内の異動だったので、引っ越すことはなかった。

 哲也おじさんは俺を見つめながら頷く。


「そうだよ。3月に入ってから急に、4月に名古屋の支社へ異動することが決まったんだ」

「名古屋ですか。確か、10年以上前に四鷹に引っ越してくる前は名古屋でしたよね」

「そうだ。文香が幼稚園に入園するタイミングだったから、もう12年前になるかな。引っ越し先は以前住んでいたマンションだから、名古屋に戻る感覚だね」

「あたしもてっちゃんと同じ感じ。でも、文香にとってはこの四鷹が故郷だと思うの。12年間でたくさんのお友達と思い出ができて。大輝君もいるからね。文香も四鷹に残りたい気持ちが強いから、4月からどうしようか考えていたの」

「そのことを美紀ちゃんから相談されたとき、和奏わかなの部屋に文香ちゃんが住んだらどうかって提案したの。和奏に確認したら、文香ちゃんならかまわないって了承してくれたわ」

「そうだったのか」


 和奏というのは、俺の3歳上の姉・速水和奏のことだ。千葉県にある国公立の女子大学に通っている1年生。大学進学の際にここから離れて一人暮らしを始めた。引っ越すとき、部屋にある家具の大半を新居へ持っていったのだ。


「母さんからその話を聞いたとき、僕も文香ちゃんがここに引っ越してくるのが一番いいと思ったんだ。四鷹には手頃な値段のアパートやワンルームマンションもあるけど、高校生の女の子が一人暮らしするのは不安な部分もあるだろう。それに、桜井と松倉まつくらは優子や僕と学生時代からの付き合いだからね。僕らと大輝が一緒なら安心できると思ってね」


 穏やかな笑みを浮かべながら話す父さん。

 うちの両親と文香の御両親は学生時代から親交がある。一番古いのは母さんと美紀さんで、中学時代からの親友。

 2人と父さんは高校に入学したときに出会った。その際に母さんから一目惚れして、付き合い始めたらしい。ちなみに、松倉というのは美紀さんの旧姓であり、学生時代の名残から父さんは今でも美紀さんを松倉と呼んでいる。そう呼ばれると、美紀さんは気分が若返っていいのだとか。

 あと、美紀さんと哲也おじさんの出会いは同じ大学に入学した直後。恐い見た目と穏やかな中身のギャップに美紀さんが惹かれ、付き合うようになったとか。付き合い始めて間もなく、うちの両親と話すようになり、それから25年以上、4人の親交が続いている。


「父さんの言う通りだな。安全面を考えたら、一人暮らしするよりはうちに住んだ方がいいよな。それに、ここに住めば金銭面で余裕が出るだろうし」

「ああ。僕からも和奏に確認して、3人に家に引っ越してきていい旨を伝えたんだ。桜井と松倉が名古屋に引っ越すのは28日の土曜日だ。ただ、文香ちゃんは明日から春休み。早くここでの生活に慣れ、2年生の学校生活の影響を少しでも減らしたいって話だから、明日引っ越してくることに決まったんだよ」

「そうだったのか。ただ、俺もこの家に住む人間だ。引っ越すのが決まった後でもいいから、もう少し前に話してほしかったかな。もちろん、引っ越してくるのが文香だから、何も言わずにいきなり家に引っ越してきてもいいけれど。明日はバイトとかの予定もないから手伝えるし」


 そうは言ったけど、以前、文香が住む云々の話を誰かからされた気がする。


「……ごめん、大輝」


 小さな声で言うと、文香は申し訳ない様子で俺を見てくる。


「引っ越すことは自分から伝えるってお母さん達に言ったんだけど、実際にはなかなか勇気が出せなくて。数日前に、ここに引っ越すことは決まっていたのに。今日の終礼が終わったとき、話しかけることはできたけど、言えたのはこれからよろしくって一言だけで」

「やっぱり、そうだったのか。驚いた後にそう思ったよ」

「……そうだったんだ。元々、こうして家族3人で挨拶をしに行く予定だったの。遅くても、そのときには大輝にも引越しのことを伝える予定だったから。それに甘えてた」

「なるほどね。……まあ、なかなか言えないことってあるよな」


 自分で口にしたその言葉に、胸がチクっと痛んだ。文香のことが好きだと自覚してから、文香に好きだと言ったことがない。もし、好きだと言える勇気があったら、あんなことは起こらなかったんじゃないかって。


「あれ? でも、和奏から『大輝は文香ちゃんと一緒に住んでも大丈夫みたい』って私にメッセージをくれたわよ」

「あたしも」

「私には電話で教えてくれました。その前に、私が住むことをどう思うか探ってみるってメッセージをくれて。それでも、春休みにここに引っ越しきて、一緒に住むって伝える勇気が出なかったんですよね……」

「……あっ!」


 思い出した! 1週間くらい前に姉さんからメッセージが来たんだ!

 制服のポケットからスマホを取り出し、LIMEでの姉さんとのトーク画面を確認する。


『大輝。もし、フミちゃんが引っ越してきて、あたしの部屋に住むことになったらどうする?』


 記憶通り、1週間前の夜に和奏姉さんからそんなメッセージが送られてきていた。そのメッセージに対する俺の返信は、


『文香だし、姉さんが部屋を使っていいなら、引っ越してきてもいいと思うよ』


 という内容だった。

 和奏姉さんは俺が文香を好きなのは知っているし、姉さんがふと思いついたからかいだと思って、全然気に留めなかったな。だから、文香に訊く気も全く起きなくて。


「和奏姉さんから探りのメッセージがあったよ。俺も文香達が言ったような返信をしてた。まあ、相手の考えが分かっていても、なかなか言い出せないこともあるか。引越しは重大なことだし」


 それに、昔のような関係だったらともかく、今の俺達だと……一緒に住むって自分から話すのは、ハードルが高かったのかもしれない。


「和奏姉さんにメッセージを送ります」


 ちょうど、和奏姉さんとのトーク画面を開いているんだ。姉さんに引越しのことについてメッセージを送ろう。


『ついさっき、父さんから聞いたよ。明日、文香が家に引っ越してきて、姉さんの部屋に住むことになったって。今、家族3人で挨拶をしに来てる。あと、先週のメッセージは探りだったんだな』


 という内容のメッセージを送った。

 すると、すぐに俺のメッセージに『既読』マークが付いて、


『フミちゃんじゃなくて、お父さんから聞いたんだね。そして、あれは探りでした! 明日からフミちゃんとの同居生活が始まるね。フミちゃんは幼稚園からの幼馴染だけれど、年頃の女の子であることを忘れないように。あと、フミちゃんは御両親と離れて不安もあるだろうから、大輝が支えなさい』


 という返信が届いた。俺がメッセージを送ってから、あまり時間が経っていないのにこの文章量は凄いな。和奏姉さんの言うように、文香は幼馴染だけど、年頃の女の子なんだ。そのことを考慮して、これから一緒に生活していかないと。

 一緒に住む人間として、彼女を支えよう。俺なんかにできるのか不安もあるけど。


「和奏姉さんに文香の引越しについてメッセージを送りました。そうしたら、さっそく返信が来ました。一緒に住むんだから、文香を支えなさいって」

「……それは俺がお願いしたかったことだ。大輝君。これから一緒に住む人として、幼馴染として文香のことを支え、守ってあげてほしい。お願いします」

「あたしからもお願いします、大輝君。速水君も優子も、文香のことをよろしくお願いします」


 哲也おじさんと美紀さんは俺達に向かって深く頭を下げた。それにつられてか、文香も頭を下げる。

 俺は父さんと母さんと目線を送り合い、一度、頷き合う。


「こちらこそよろしくお願いします」


 速水家を代表して、俺が桜井家のみなさんにそう言った。

 すると、桜井家のみなさんはゆっくりと顔を上げる。哲也おじさんと美紀さんはもちろんのこと、文香も安心した表情を浮かべているように見えた。


「徹さん、優子さん……大輝。明日からよろしくお願いします」


 文香はそう言うと、父さん、母さんの順番に握手をしていく。

 母さんとの握手が終わった後に文香は微笑みながら、俺に右手を差し出してくる。それは昨日見た夢に出てきた文香と重なる。もしかして、あの夢は桜の花が咲く今の時期に、文香が家に引っ越してくることを伝えてくれていたのかな。


「どうしたの? 大輝」

「……ううん、何でもないよ。こちらこそよろしく」


 そっと右手を差し出して、文香と握手を交わす。その瞬間、文香の手がピクッと震えた。握手するのがひさしぶりだからだろうか。

 好きな人と肌が触れ合い、好きな人の温もりを感じるのは凄くいいな。そして、この状況にドキドキしてくる。顔がちょっと熱いし、頬が赤くなっていなければいいけど。

 そんな思いを胸に文香の方を見ると、文香の頬はほんのりと赤くなっていた。それがとても可愛く思えたのであった。

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